ホームページ

イエス・キリストは、教会と私生活だけでなく、生活の全ての分野の主です。そして、ビジネス、政治、教育、芸術、音楽、環 境問題、子育て、皿洗い、遊び、夫婦の性生活を含むあらゆる分野で、私たちが生き生きと、クリエイティブに、変革をもたらしつつ、喜び楽しんで生きて行く力を与えて下 さる方です。私たちもそのことを直感的に理解し、実際にそのような生き方を目指していますし、歴史を見る時に確かに多くのクリスチャンがそのように生きて 来ています。 

 
ところが、私たちはその理由を聖書からはっきりと理解していません。私たちが直感的に求めている方向と、今まで学んで来た福 音理解には何らかのギャップがありそうです。このウェブサイトは、そのギャップの一つの原因として、世界観の問題があるのではないかと問題提起し、その解 決の方向を探る体験談や資料を提供しています。先ずは体験談(1)から読んでみて下さい。

体験談等のページを読み、質問、コメント等を持たれた方、また似たような視点で生きている人たちやグループと知り合いたいと思われる方は、御連絡ください。サイドバーの「メール送信」ボタンを押すと、コーディネーターへのEメールを出すことができます。コーディネーターのプロフィールはやはりサイドバーの「プロフィール」ボタンを押して下さい。

このサイトはプロテスタントの中の福音派(福音主義)という立場で書かれています。

                         CONTENTS

体験談(1)島先 克臣
        百万人の福音 02年8月号よりの抜粋
体験談(2)岩田三枝子さん
        東京基督教大学専任講師、岩田さんの体験談
資料紹介
        キリスト教世界観への入門書等の紹介
『わが故郷、天にあらず--この世で創造的に生きる』
        ことば社出版の本の紹介ページ
世界観とは
        世界観についての平易な解説
Q & A
        よく聞かれる質問に答えます
聖書の語る救いを求めて(1)「ギリシャ二元論の影響?」

        信仰と生活が分かれてしまう原因の一つが 
        ギリシャの二元論にあるのでは、と問題提起
聖書の語る救いを求めて(2)「旧新約聖書の教え」
        キリスト教世界観に立った旧新約聖書理解を探る
フォーラム
        ネットワークに参加している人々の体験談、   
        意見などを掲載しています。

『わが故郷、天にあらず』読書随想(連載)(小嶋 崇 担当)

        このネットワーク参加者の多くが読んでいる本書を

        一章づつ懇切に解いて行く連載シリーズです

 

                              NEWS

CWN 201年の集い (第9回) (2013/2/23掲載)

2013年の集いは以下のとおりです。当日お会いしましょう!

http://cwn.way-nifty.com/cwn/2013/01/cwn-cc94.html

放射能問題と向き合って問われたこと

   ・・・夫として、父親として、牧師として


       

2012年6月29日 反原発デモ (2012年6月29日掲載)

国会議事堂前で降りた私と妻は、6時からの反原発デモに遅れて参加。反原発の集まりは3ヶ月ぶり。赤ちゃん連れのお母さんや、仕事帰りのサラリーマン、ごく普通の市民が参加し、原発再稼働に対する反対を訴えていました。今回は予想外に多くの人が参加したそうです(http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye5068612.html)。次の大きな集会は7月16日の祝日に代々木公園で(http://coalitionagainstnukes.jp/?page_id=668)。行ってみませんか?

「原発のない世界へ」 小出裕章著(筑摩書房) (2012年6月29日掲載)

職場の同僚に勧められた一冊。専門家が書いた分りやすい入門書。お勧めです。

CWN2012年の集い(第八回)

単立鶴川キリスト教会信徒伝道師の山川 暁 さんが「原発への神学的アプローチ」と題して、井上光晴の小説を切り口に原発問題をキリスト教思想を基盤に考察されました。講演の後の分かち合いでは、原発をどうのように捉えるか、活発に意見が交換され、色々目がひらかれた思いでした。講演内容は以下をクリック。

CWN2012年の集い(第八回)の講演内容をアップしました。 (2012年6月20日掲載)

 

CWN2011年の集い(第七回)の講演内容をアップしました。

CWN 2011年の集い (第七回) (2010/12/18掲載)

2011年の集いは以下のとおりです。当日お会いしましょう!

http://cwn.way-nifty.com/cwn/2010/12/cwn2011-cd51.html

 

CWN 2010年の集い(第六回) 主婦として、教員として(2010/3/6掲載)

   講師:   
岩田三枝子(いわた・みえこ)先生
             東京基督教大学神学部専任講師

今、大学でキリスト教世界観を熱心に教える岩田先生が語る、世界観との出会いと生き方。

藤田 浩 「キリスト教世界観ネットワークと私」(2010/3/1掲載)

長年キリスト教に触れて来たけれども、信仰に至らなかった藤田さん。しかし、イエス・キリストの救いは「創造の回復」なのだと知った時、洗礼を受け る決心をしました。

CWN 2010年の集い (2009/11/12掲載)

2010年の集いは以下のとおりです。当日お会いしましょう!

http://cwn.way-nifty.com/cwn/2009/11/post-14d4.html


2009年N.T.ライト読書会
10月の予定 (2009/9/15掲載)

キリスト教の中心とも言える「復活」がテーマです。ふるってご参加ください。詳しくは:

http://cwn.way-nifty.com/cwn/2009/09/post-6c00.html

2009年N.T.ライト読書会3月の予定 (2009/3/5掲載)

3月28日の読書会のテーマが決まりました。キリスト教の中心とも言える「復活」がテーマです。ふるってご参加ください。詳しくは:

http://cwn.way-nifty.com/cwn/2009/03/nt-9ab1.html

CWN2009年の集い (2009/2/25掲載)

2009年の集いは以下のとおりです。当日お会いしましょう!
http://cwn.way-nifty.com/cwn/2008/12/cwn-2009-2fdb.html


2009年N.T.ライト読書会
予定 (2009/2/25掲載)

読書会ウェブサイトが開設され、『N.T.ライト論文集』が出版されました。2009年の読書会の予定も決まりました。詳しくは以下のページをご覧下さい。
http://cwn.way-nifty.com/cwn/2009/02/nt-1a8a.html

N. T. ライト読書会 (2008/10/2掲載)

今回の読書会は趣向を変えて「キリスト教世界観」そのものについて自由に語り合います。

日時:10月25日(土曜)午後1時30分から3時30分

場所:巣鴨清泉キリスト教会会堂(場所は「N.T.ライト読書会へのお誘い」のページ)

テーマ: 世界観とキリスト教世界観・・・どういう意味で使い、どういう問題提起なのか

*小嶋さんかコーディネーターの私に一言出席する旨お伝えください。

***************************************************:

キリスト教世界観ネットワークのミーティングに出るようになって時々考えるのです。お互い「世界観」を合言葉のようにして話しているけどはたして同じような意味で使っているのだろうか・・・。また歴史上様々な問題のあるキリスト教が現れたが、「異端」としてではなく「キリスト教世界観」を問題にするのはなぜなのか。現在一番焦点が当てられているのは「霊肉二元論」は「聖書的ではない世界観」だから問題なのか・・・。

NTライト読書会ではありますが、今回はこの「世界観」が論議される背景を考えてみたいと思います。一般論としてではなく、お互いがどのように関心を持ち、どんな本や影響を受けながら「世界観」と言う概念や世界観が提起する問題に取り組んできたのかをブレインストーミング的に話し合ってみたいと思います。  (小嶋記)

***************************************************:

小嶋さんの読書随想第十七弾、最終回をアップしました(2008/10/2掲載)

『時のはざまで』

日毎の労苦と痛みの中でも最終的な被造世界の完成というゴールを見失わないで、複雑な現実世界を創造的に生きるというのは並大抵のことではありません。イエス様の助けをいただきながら、失敗しつつもそのような生きたかをするよう召されているのだと教えられました。

長い間小嶋さんが『わが故郷天にあらず』の読書随想を一章ずつ書いて下さってきましたが、今回が最終章の読書随想です。このシリーズ最終回となりました。長い間本当にありがとうございました。お疲れさまでした。ある教会では、この随想を手引きとして読書会をしているそうで、小嶋さんに大変感謝していました。個人としても教会としても、このシリーズを使っていただければ嬉しく思います。

小嶋さんの読書随想第十六弾をアップしました(2008/7/21掲載)

『新しい創造』

「霊肉二元論的な視点からは『霊=永遠』に対し『肉体・身体=消滅』となり、物質的被造世界も、多種多様な労働が構築した文化遺産も、その物質性故に永遠から除外される。つまり「この世における働き」が永続性を与えられないため、「働き」への動機付けが著しく損なわれることになる。」とまとめた小嶋さんは、「個人的終末論」にのみ注目して来たキリスト教会が「民族的・世界歴史的終末論」を回復することを提案します。

2008年 N.T.ライト読書会のご案内  (2008/6/11掲載)

小嶋さんを中心に行なっているN.T.ライト読書会のご案内です。どなたでも参加できますので、案内をご覧下さい。

マイケル・ゴヒーン師の講演内容をアップしました。 (2008/5/28掲載)

5月26日(月曜)夜6時半よりもたれたゴヒーン師の講演会の講演内容を師の許可を得てアップロードしました。お読み下さい。ゴヒーン師については以下参照。
http://cwn.way-nifty.com/cwn/2008/03/post_8bbe.html

小嶋さんの読書随想第十五弾をアップしました(2008/4/13掲載)

『耐え忍ぶ』

神の国が既に地上に現れ広がりつつあるのに、それは未だ完成していないというのが私たちの置かれている現実で、そこには決して単純ではない緊張関係があります。小嶋さんはご自分のウェスレアン・ホーリネスの伝統を例にとり、「既に」と「未だ」を語ります。

CWN 2008年の集い

一年に一度、学びと交わりのためにCWNの集いを開いていますが、今年は4回目です。内容は以下の通りです。是非ご参加ください。詳しくはhttp://cwn.way-nifty.com/cwn/2008/01/cwn_2008_7894.html

をクリックしてください。

    講師:宮崎弥男 先生 改革派・筑波みことば教会牧師
        アル・ウォルター著「創造の回復」の訳者

    場所:お茶の水クリスチャンセンター9階
 
    日時:2月23日(土曜)1時15分ー3時まで

小嶋さんの読書随想第十四弾をアップしました(2008/1/11掲載)

伝道、新しい生き方への招き

福音派の根底にある思想を突き詰めて行くと、一瞬一瞬の日常の大切な営みがすべて単なる手段に堕ちて行くことを鋭く指摘する章です。小嶋さんは抜粋と要約で章の中心点をまとめ、いくつが具体的な提言をしています。

小嶋さんの読書随想第十三弾をアップしました(2007/10/11掲載)

『礼拝か偶像礼拝か』

マーシャルの本の中でも特に注目に値する章で、都市構造を「礼拝と偶像礼拝」という視点から分析しています。小嶋さんは例の9・11を振り返ります。

小嶋さんの読書随想第十二弾をアップしました(2007/07/16掲載)

『テクノロジーにおける自由と責任』

「前章で取ったアプローチと同様、マーシャルは一方的に否定的な見方、一方的に肯定的な見方のどちらの立場も取らない。テクノロジーそのものの功罪を論ずる のではなく、「神の像に造られた人間に備わった、被造世界に働きかける資質の現れとしてのテクノロジー」の問題を論ずる。テクノロジーもまた、知識や政治 や芸術と同様、神からの「賜物」「召し」として位置付けられ、いかにしてこれらの賜物の良き僕・管理者となればよいのか、という視点から論じている。」とまとめる小嶋さん。ご一読ください。

小嶋さんの読書随想第十一弾をアップしました(2007/05/23掲載)

『イマジネーションと芸術』

「サブタイトルから芸術全般について書かれていることを期待していた方は少々当てが外れたかもしれない。あるいは「キリスト教絵画・音楽・文芸について書いてあるのかな」、と想定していた方もやはり期待はずれだったであろう。著者がこの章で取り上げるのは専門のアーティストの何かではなく、普通のクリスチャンが日常生活で目指すアート、つまり想像力とセンスを働かせることについてである。だから「ファッション」や「料理」といった身近な話題が中心となっている。」

と語る小嶋さん。いつものように、中心思想のよく選ばれた抜粋と要約、そして歯ごたえのあるインターアクション。小嶋さんの労作に感謝。

小嶋さんの読書随想第十弾をアップしました(2007/03/28掲載)

著者ポール・マーシャルとマニラで出会った小嶋さんの個人的な体験を交え、今に生きるキリスト者の政治的な参与を語る第十弾。是非お読み下さい。

 

小嶋さんの読書随想第九弾をアップしました(2007/01/27掲載)

自然界の開発と保護。世界を正しく治めるよう使命が託された人間にとって、中心的な課題です。聖書はなんと言っているのか、分かりやすく整理してくれる章です。

N. T. ライト読書会発足(2007/01/20掲載)

N. T. ライト(あるいはトム・ライト、N.T. Wright, Tom Wright)は英国有数の新約聖書学者であるだけでなく、ダラム司教区の司教であり、英国国教会の指導者の一人として尊敬されている牧者です。ライトの世界観は、このネットワークが掲げているキリスト教世界観と基本的に同じで、世界中のキリスト教世界観運動に大きな影響を与えている人物です。彼の著作を読む会を、小嶋崇さんを中心に始めることになりました。詳しくは「N.T.ライト読書会へのお誘い」のページをお読み下さい。

小嶋さんの読書随想第八弾をアップしました(2006/12月掲載)

遊ぶことの本質を聖書から追求した章です。遊びがクリスチャンの崇高な召しだと言うのは何故なのか。今まであまり聞いたことのない内容だと思います。お読み下さい。

小嶋さんの読書随想第七弾をアップしました(2006/12月掲載)

休むことは信仰の根幹に関わる大切なことのようです。今まで
余り語られて来なかった本当に休むということを、聖書から、またより広い視点
から小嶋さんがとらえ直します。

ティンデル聖書注解シリーズ『雅歌』(島先訳)が出版されました(2006/12月掲載)

ヘブル語の解説の多い、牧師向きの注解書ですが、雅歌を男女の愛と性の讃歌ととらえる立場を取っていて、「創造の回復」という視点とも合致します。

「雅歌の寓話的解釈という千数百年の伝統に異を唱え、雅歌は男女の愛と性の讃歌なのだと言えるようになったのは、近現代における旧約聖書学の発展の賜物です。学者の間では定着してきたこの解釈はまだ一般的ではなく、雅歌の中心的なメッセージがクリスチャンの間で十分に浸透していないのではないかと思われます。
 神が天地を造られたとき、神は男女の愛と性をも造り、結婚を祝し、「非常によかった」(創世記1:31)と宣言されました。堕落によって本来の美しい愛と性が歪められましたが、イエス・キリストは御霊の働きによって男女の愛と性を創造本来の姿に回復しようとして下さっています。その助けとなるのが雅歌でありましょう。この注解書が翻訳出版されることにより、夫婦生活の美しさ,豊かさ、また麗しさが深く広く理解され、体験されていくことを願っています。」訳者後書きより

小嶋さんの読書随想第6弾 渡辺晋哉さんの 「新しい歌を歌え」をアップしました (2006/10月掲載)

人類の堕落の影響が先ず及んだ分野の一つが仕事であると創世記3章は語りま
す。私自身、「とにかく生活」と思い、勤勉さと召命感を持って日々の仕事に向
かうことの困難さを覚えています。皆さんは仕事場にどのように向かっていますか?
 小嶋さんは、マーシャルの第六章の中心を簡潔にまとめ、仕事を贖うことの困難
さを指摘しながらも、新しい労働文化を構築する新しい道徳基盤の芽生えを期待
しています。

伝道できないことで「自分自身を裁く声が止まらなかった」渡辺さん。み言葉と
の新たな出会いにより、「広く、そして深い可能性に満ち」た生涯を「私の新し
い歌を、喜びの心をこめて歌」いつつ歩み始めました。

小嶋さんの読書随想第5弾 近藤和子さんの 「この世を我が家に」をアップしました (2006/09/15掲載)

近藤和子さんの 「この世を我が家に」
「私は、家族を救いに導く事が出来なかった事や、離婚した事等を思う時…次第にクリスチャンとして肩身の狭い思いを抱く様になりました」と、重い気持ちで信仰生活を送っていた近藤さんは、ある時ポール・マーシャルの本と出会う。

小嶋崇さんによる読書随想の第五回目
「私にとって『クリスチャン』と言うことと『学ぶ』と言うことの関連で一番悩んだ問題は『世俗の学問を深く学んで行くと信仰と対立してしまうのではないか』と言うものであった」と語る小嶋さん。学ぶということとキリスト教信仰は実は切っても切れない関係にあります。第5章をエッセンスをいつものように見事に表現して、自らの体験を語る。

         --**--       --**--       --**--       --**--      --**--


2007年CWNの集い 2月24日(土曜)に(2006/08/16掲載)

2007年の集いの日程が決まりました。2/24(土)の10:30am-3:00pmです。御茶ノ水キリスト教会館に場所を確保しました。今から予定に入れて下さいね!

2007年の集いは講演とスモールグループでの交わりの二本立てにします。メインスピーカーは今回エッセイを書いて下さった岩田三枝子さん(以下参照)。東京基督教大学で「キリスト教世界観」を教えておられる専門家で、私たちのためにキリスト教世界観の基本を語ってくださいます。

         --**--       --**--       --**--       --**--      --**--

岩田さんのエッセイ小嶋さんの読書随想第4弾 をアップしました (2006/08/16掲載)

岩田三枝子さんの「生活のすべてに」
「ある夏の昼下がり、玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けてみると、懐かしい顔がそこに立っていた」と始まる短いエッセイ。東京基督教大学で「キリスト教世界観」を教える岩田さんが「キリスト教世界観は生活のすべてに現れてくる」と語る。

小嶋崇さんによる読書随想の第四回目
インターアクションでは、米国の福音派クリスチャンの間で爆発的な人気となり、日本でも話題となっているリック・ウォレン著『人生を導く5つの目的』を取り上げ、『わが故郷』と比較。二つの書の共通点と相違点を指摘するという興味深い内容。

         --**--       --**--       --**--       --**--      --**--

小嶋 崇さんの「『わが故郷』の読書随想の第3弾をアップしました (2006/07/21掲載)

 今回は第三章 『罪との闘い』です。マーシャルの本は本当にそうだなとさっと読んでも納得が行くのですが,いざ言葉に出して整理しようとすると難しい面があります。いつものように小嶋さんは章のエッセンスを表している文章を抜粋。次に章の背後にある考え方を整理して見せてくれます。
 この章はマーシャルの本の中核とも言えるものではないかと思います。人間の罪と、私たちが今日どう生きるのかということが正しく整理されない限り、生き生きと生きて行く事はできないと思うのですが、この章はその部分に取り組んでいます。
 今回のインターアクションは小嶋さんの趣味の大工がテーマです。ところで、彼が牧会する巣鴨聖泉キリスト教会の教会堂にはどこそこ彼の素敵な手作りの家具があるのです。会堂そのものも素敵です。
 是非この章も一読を!(サイドバーの「小嶋崇の読書乾燥」をクリックして移動し、そこから第三章をクリックして下さい)

         --**--       --**--       --**--       --**--      --**--

小嶋 崇さんの「『わが故郷』の読書随想」の第2弾をアップしました。

 今回は第二章 『神の造られたこの世界と私たちの責任』です。第二章のタイトルのように、私達に与えられた使命と責任の本質に迫る内容です。環境問題にも触れています。

千葉光雄さんの花の写真 (2006/05/09掲載)

 千葉光雄さんにお願いし、趣味の写真を提供していただきました。花々が光を浴びて精一杯輝き、千葉さんに語りかけているようです。各ページに少しづつアップしていきます。

         --**--       --**--       --**--       --**--      --**--

フォーラムへの最初の記事 (2006/04/26掲載)

  鈴木桂子さんの「再び絵筆を取って」
40年もの長く苦しい「荒野」の歩みを通してたどり着いた、主にある恵みの生活を語る。

          --**--       --**--       --**--       --**--      --**--

新連載始まる!(2006/04/26掲載)

  小嶋 崇さんの「『わが故郷』の読書随想」
巣鴨聖泉キリスト教会(東京都豊島区)では『わが故郷、天にあらず』の読書会が行われています。そこで、その読書会の指導者である牧師 小嶋 崇さんにお願いして、このウェブサイト用に「読書随想」という形で新たに書き下し、『わが故郷』の要約やコメントなどを章ごとに連載していただくことになりました。毎月後半に掲載していく予定です。今回は5月号の原稿をかなり早めにいただいたので、4月中に掲載することになりました。

内容はとてもすばらしいものです。先ず章の中心的な思想を伝える抜粋があり、そのためもう一度読んでいるような思いになります。次に章の要約が見事になされ、最後に、ご自分の体験等を交えながら、その章に対するご自分のレスポンスを載せています。

小嶋さんは神学を学び、宗教社会学の専門家で、哲学にも造詣が深く、するどい客観的な分析が持ち味です。キリスト教世界観に関しても、思想史的、また社会学的にもとらえて下さっているので、助かっています。しかし同時にのんびりとした、やさしい方でもあり、このシリーズではその両面が生かされているようです。是非お読み下さい。左のサイドバーからもページに移動できます。

         --**--       --**--       --**--       --**--      --**--

新しくフォーラムのページができました(2006/04/18掲載)

上記Contentsを見て下さい。サイドバーからもページに移動できます。

         --**--       --**--       --**--       --**--      --**--
このサイト名に新しく副題「包括的霊性を目指して」を付けました(2006/03/19)

それは体験談(1)の福音の深さと広さの両面が一つとなる願いを示しています。まはこの用語はチャールズ・リングマ(リージェント・カレッジの宣教学部長)のものです。詳しくは、Q & Aページ のQ-5を参照して下さい。

|

せかいは新しくなる (みんなの聖書・絵本シリーズ)の紹介

『せかいは新しくなる』(日本聖書協会、絵本シリーズ第36巻)

せかいは新しくなる (みんなの聖書・絵本シリーズ)

創世記から黙示録まで、聖書全体の流れを12ページで語ります。しかも、神の造られたよい世界が、人間の罪によってゆがめられるも、メシアによって回復し、完成するという視点で貫かれています。本サイトで語られている神の救いのご計画を数分で、そして、幼児にも分かる形で伝えられます。是非、書店で手にとってみてください。巻末解説、関連聖句付き。

|

CWN2013年の集い

     放射能問題と向き合って問われたこと

   ・・・夫として、父親として、牧師として

        

キリスト教世界観ネットワーク、第回目の集いです。

 

今年、第9回目の集いには、昨年11月に出版された「目に見えない放射能と向き合って岩手県南・水沢で」(ことば社)の著者、若井和生先生を講師としてお迎えして、お話しを伺います。原発の再稼働や新設などに気持ちが向いていて、いつの間にか、福島での事故が過去のものになりつつあるように思えます。そのような私たちに、続いている戦いの体験を現地の牧師からお聞きしたいと思います。是非お誘いあわせのうえご参加ください。


若井牧師談「放射能の影響が及んだのは福島県だけではありません。福島第一原発から200キロ離れた岩手県南部にも放射能混じりの雨が降り、この地域も放射能によって汚染されることになりました。その事実と向き合いながら自分なりに悩み、考え、人と交わり、行動し、学んできました。特にその経験を通して神様から何を問われ、どのように支えられてきたのか、お分かちできる機会が与えられ感謝しています。そのことを通して今後の私たちが何を目指すべきなのか、どのような方向に歩んでいくことを神様が望んでおられるのか、ともに考える機会となれば幸いです。」

 

場所:お茶の水クリスチャンセンター9階(JRお茶の水駅より徒歩3分)

    東京都千代田区神田駿河台2−1  

    Tel:03−3296−1001

  地図:http://ochanomizu.cc/hp-2010map.php

 

日時:3月16日(土曜) 1時30分ー4時まで

 

内容:約45分の講演。その後は互いの近況報告。

 

費用:無料、席上の自由献金あり

 

講演題:「放射能問題と向き合って問われたこと

      ・・・夫として、父親として、牧師として」 


講師プロフィール:若井 和生(わかい・かずお)牧師

岩手県の水沢聖書バプテスト教会牧師。2011年3月より「3.11いわて教会ネットワーク」の一員として被災地支援の働きを続ける。昨年11月にいのちのことば社よりブックレット『目に見えない放射能と向き合って』を出版。牧師として、夫として、父親として放射能問題と向き合ってきた経験を紹介する。「放射線被曝から子どもを守る会・いわて」会員。妻、六歳の息子、義母との四人家族。

| | コメント (3)

原発への神学的アプローチ

 -小説家の想像力とキリスト者の先見性ー  

  単立鶴川キリスト教会 信徒伝道師 山川 暁

 はじめに

  3.11から1年が経とうとしています。昨年、3.11に直面させられた私は、その夏に、私が住んでいる多摩ニュータウンで発行されている同人誌『手の家』に『原発への神学的考察―井上光晴の原発小説「西海原子発電所」と「輸送」を通して』というまことに拙い論考を寄稿させてもらいました。その同人誌『手の家』を島先さんにも読んでいただきました。そのことが縁となり、今回、島先さんから、CNW(キリスト教世界観ネットワーク)の集いで、「文学を通して見た、原発問題」をテーマに話すようにと声をかけていただいた次第です。

1、小説家の想像力

 「原発への神学的アプローチー小説家の想像力とキリスト者の先見性―」というタイトルを付けさせていただきました。しかし、基本的には『手の家』に書いた論考を下敷きに話させていただきます。ですから、ここでいう小説家とは井上光晴であることをご理解ください。

 『手の家』を読んでいただいた方々から、色々感想や批判を寄せていただきました。その中に「神学的考察」と唱っているが、肝心のそこが十分に書けていない、という厳しい批判もありました。それで、今日は、その批判にも応えられるように話が出来ればと、願っています。

 先ず小説家井上光晴について簡単にお話しさせていただきます。井上光晴は1926年に九州の久留米で生まれています。没したのは1992年で、66歳の生涯でした。井上光晴はガンで亡くなっています。私はこの小説家がガンを宣告され、亡くなるまでの1000日を『生き尽くす人』という本にまとめさせてもらいました。

 井上光晴は小説家として、ユニークな人でした。ひとつその事例を上げれば、彼が1977年に佐世保に「文学伝習所」を開設したことです。幕末に勝 海舟が長崎に海軍伝習所を設置したことにヒントを得ての事でありました。井上光晴はこの「文学伝習所」をやがて全国各地に開設してゆきました。最盛期には北海道から九州まで、全国十か所以上に「文学伝習所」が開設されました。そして、私が暮らす多摩ニュータウンにも「多摩文学伝習所」が開設されました。『手の家』は多摩文学伝習所の伝習生によって創刊された同人誌です。私自身は同人ではありませんが、昨年、原稿を求められ、寄稿したした次第です。私には、全国各地に「文学伝習所」をつくり、手弁当で文学を「伝習」しようとした井上光晴の行為が、福音を宣教する宣教師の姿に重なって見えました。

 『原爆文学論』という本があります。1993年に出た本ですが、著者は文芸評論家の黒古一夫です。黒古さんは、この本の冒頭でこう述べています。

 核状況下の危機というのは、いつ起きてもおかしくはない、人類を死滅に導く熱核戦争だけを意味するものではない。数えきれないだけの核兵器と、“平和利用”の美名のもとで私たちの日常生活の深部にまで浸透した原子力発電に囲まれて、私たちの人間としての在り様が、「危機管理」に訓育され、現状を変革する意志を喪失し、徐々に緩慢なる人類滅亡への道を歩んでいることに無自覚になっている現状、これこそ核状況がつくり出す「危機」と言える。つまり、「核」を頂点とする際限のないエネルギー消費とすさまじいばかりの資本の論理に基づいた技術革新が、「科学万能神話」に支えられて、私たちの「未来」を閉ざしているということである。

そして、井上光晴についてこう述べています。井上光晴ほど一貫して「核」に関心を持ち続け、被爆者体験がないにもかかわらず、それを文学的主題としてきた作家はいないと言えるだろう、と。

 井上光晴が最初に核を、つまり原爆をテーマにして書いた作品は『手の家』と言う短編小説で、この作品は1960年に書かれています。その3年後に、傑作という評価の高い『地の群れ』が書かれています。『手の家』について、黒古さんはこう書いています。

 隠れキリシタンの住んでいた島の「差別」構造と、被爆者差別の現実とがつくり出す差別の重層化を浮き彫りにしたこの短編は、井上光晴の「核」に対する関心がどこにあるのかを、如実に物語っていた。虐げられている人間が、また自分より下の位置に存在することを知って安心する「差別」の袋小路を鋭く突き出すことによって、「自由」を彼方に遠望せんとする井上の世界は、「核」が「自由」の最大の敵対物であることを明らかにするものである、と。

 井上光晴は原爆の持つ物理的破壊力を描くことをせず、原爆が人間の「自由」を奪う「最大の敵対者」として原爆を描いています。原爆が人間の精神を如何に荒廃させるかを描いているのです。また、1982年に書かれた『明日―一九四五年八月八日・長崎』もユニークな原爆小説です。長崎に原爆が投下される前日を描いているからです。

 さて、原発小説ですが、井上光晴が原発をテーマにして最初に書いた作品は1978年に書かれた「プルトニュムの秋」という戯曲仕立の小説です。この作品は、原発労働者の被爆保障問題と原発技術者の不安とを前面に押し出して書かれた作品です。この作品のテーマをさらにあたためて書かれた作品が「西海原子力発電所」です。1986年に書かれています。ところがこの年に、チェリノブイル原発で大きな事故が起きました。そして、さらに2年後に書かれた作品が、核廃棄物の輸送事故によって引き起こされる惨事を描いた「輸送」でした。

 井上光晴は原爆が投下され、破壊された長崎に、原爆投下の3日後にその地に立っています。そこに井上光晴の核に対する問題意識、それは具体的には原爆であり、そこからさらに原発へとつながっていくわけですが、その問題意識の原点があるといっても間違いはないと思います。

 井上光晴は原爆と原発は根っこではつながっている、人間社会にとって極めて危険で、かつ邪悪なものという認識がありました。小説家の中で、井上光晴ほど、原発の「安全性」に疑問を抱いていた人はいなかったと思います。「西海原子力発電所」のモデルともいえる玄海原発を訪れたとき、井上光晴はこう述べています。それまで東海、女川、福島第一、敦賀など「運転開始」のたびにたずねていて、受けた印象をもうひとつ際立たせるものがそこには展開されていた、と。それは過剰なまでの「安全性」への説明であったのです。

原発小説「西海原子力発電所」の構想はここから生み出されたのです。構想では原子炉の爆発によって飛散した放射能が、原発周辺の地域を被う情景を描くものであったようです。しかし、作品を7割ほど書き進めて来た時に、チェルノブイル原発で事故が起こったのです。井上光晴はこう述べています。

 私のペンがまったく動かなくなった理由と原因は理解していただけよう。可能な限りの資料を集め、想像力を振り絞ったあげく、起こり得べき未来の状況として設定した「炉心溶融事故」を、チェルノブイル原発はあっさりと乗り越えてしまったのである、と。

 黒古一夫さんは井上光晴のこのことばを捉えて、こう言っています。文学者(作家)が予言者的側面を持つことの実証を、ここに見ることができる、と。

 チェルノブイル原発事故によって井上光晴の想像力はあっさりと乗り越えられてしまいました。その結果、構想を改めて書かれたのが、原子炉が爆発する代わりに、原発が「核権力」として、原発の設置されている地域を支配する現実を暴く作品となったのです。

 もうひとつの原発小説「輸送」は、原発から出た核廃棄物を輸送するトレーラーが海に転落して、漏れ出した放射能によって、その地域一帯に暮らす民衆の姿を描いた作品です。多くの日本人がほとんど関心を持っていない核廃棄物の運搬事故によっても、原発事故と何ら変わらない惨事が引き起こされることを描いたところに、この作品のユニークさがあります。この作品には3.11によって現実に起きた事実とそっくりな世界が描かれています。まさに小説家井上光晴の想像力が現実を先取りしているのです。これは小説家井上光晴に、小説家としての創造力があったからこそ、この原発小説を生み出すことができたといえます。


2、キリスト者の予見性

 井上光晴は原爆と原発とは根っこでつながっているものと認識していました。とすれば、原発を考える前に、原爆について目を向ける必要があります。

 原爆を開発し、製造したこと、そしてそれを保持し続けることは、果たして主なる神の前に正しいこと、義なることであり、また義なることであったのでしょうか。核問題について考察しようとするとき、キリスト者の思考はここから出発しなくてはならないのではないでしょうか。私はそれを唯物主義者の井上光晴から教えられました。

唯物主義者ではありましたが、小説家としての井上光晴は神について無関心ではありませんでした。だが神を受け入れることが出来ない合理主義者でありました。キリスト者が罪とする「自己中心主義」について、井上光晴はそれを人間のエゴイズムとして、鋭く追及した作家でした。

そして、核の問題を政治体制、政治思想といった人間的側面から捉えようとした作家が井上光晴であったといえます。しかし私たちはキリスト者です。神を抜きにして、核問題を考えることはできません。そして、核問題を考えることは、ある意味で、2000年の教会史が示しているように、戦争に加担し続けてきた教会が、神の前に戦争が正しいことであるか、どうかを考えることにも通じています。これはキリスト者にとっては、たいへん大きな、かつ重要なテーマです。

 結論から言えば、原爆を開発して、製造したことは、神の前に正しいことではなかった、義なることではなかったということであります。

その理由は、ただ一つです。それは主なる神の主権を侵したからです。原爆を開発し、製造したこと、そしてそれを投下したことは、まぎれもなく神の主権を侵した行為です。

 キリスト者に与えられている使命の一つに、預言者的使命と言えるものがあります。それを分かりやすく言えば、キリスト者の先見性といってもよいでしょう。核問題についてキリスト者はどれだけの先見性を持っていたのでしょうか。3.11を体験して、それが現在厳しく問われているように思います。

日本のキリスト者が原発について発言するようになる前から、核問題について、特に原発の危険性を訴え続けてきた核物理学者がいます。高木仁三郎です。高木さんは『チェリノブイル原発事故』でこう述べています。

核技術というものは、いわば天上の技術を地上において手にしたに等しい。私はなんら比喩的な意味でこのことをいっているわけではない。核反応という、天体においてのみ存在し、地上の自然の中には実質上存在しなかった自然現象を、地上で利用することの意味は、比喩が示唆する以上に深刻である。あらゆる生命にとって、放射線は、それに対してまったく防禦の備えのない脅威であり、放射能は生命の営みの原理を攪乱する異物である。

核エネルギーを人間が直接的に解放すること、それは神の主権を侵す行為にほかなりません。高木さんの警告から、キリスト者はその警告が聖書の神を無視している、そのことに気付かなければならなかったのです。つまり、それは太陽の表面で起こっていることを、地上おいて人為的に引き起すことを意味しているからです。そのことはまさに宇宙を支配されている創造主の主権を侵しているのではないでしょうか。

 人間は神が宇宙を支配されていることによって、大きな恩恵を受けています。例えば地球の大気圏あるオゾン層のことを考えてみてください。オゾン層が厚過ぎれば、生命にとって必要な放射線を吸収してします。また、逆にオゾン層が薄すぎれば、生命に危険を与えるだけの放射線を通してしまいます。オゾン層は地上の生命を維持するために、ちょうどよい厚さを保っていてくれているのです。これは宇宙が神の支配下に置かれ、人間に恩恵を与えてくれている証拠の一つです。

 さて、創世記に記されているバベルの塔の物語は広く知られている話です。人間は天にも届く高い塔を建てようとしました。それは人間の名を上げるためでした。その人間の企てを知った神は、こう仰せられました。「彼らがみな、一つの民、ひとつのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼がしようと思うことで、とどめられことはない」、と。(創世記11:6)。

 つまり、人間が企てようとしたことは、人間の手によって、歴史の支配権を神の手から奪い取ってもよいという、実に高慢な企てであったのです。それ故に、神はこの企てを阻止されたのです。

 神の主権を人間が侵そうとした企てを、神は阻止されました。神の主権は決して侵してはならない。バベルの塔の物語からは、そのように読みとることができるのではないでしょうか。ある牧師は、バベルの塔を建てようとした人間について、「神を忘れ、人間の力を誇る生き方が見られる」と語っています。神を忘れ、人間の力を誇ろうとすること、それは神の主権を無視し、その主権を侵すことに通じているのではないでしょうか。

 原爆を開発したことは、神の主権を侵した行為であったと言いました。それに対してこう問われる方がいるかもしれません。何故神は御自身の主権が侵されるのを見過ごされたのか、と。何故バベルの塔を建てるのを阻止されたように、原爆の開発を阻止されなかったのか、と。神が原爆の開発を阻止されなかったその理由は、神が被造物である人間に与えてくれた自由意志にあったと言えると思います。神は人間を神に似せて創造されました。創造された人間は自由意志を持った存在でした。皮肉にも、その自由意志を与えられたことで、アダムとエバは罪を犯すことになったのです。もし、神が人間を機械的に創造されたのであれば、人間にはものごとを自由に選択し、自由に判断する余地はなかったはずです。自由意志を持たない人間は、単なるロボットにすぎません。

神は自由意志を持った人間が御自身と応答することを求めておられます。TCUの稲垣久和先生のことばを引きます。

 神は永遠の生命はおろか、地上の生命をも「滅ぼす」という予言をしておいても、それを何度か変更している。それは人間が神の前に悔い改めをすることによってである。憐れみ深い神は悪人ですら滅びることを喜ばないのである(エゼキエル書33章)。悔い改めて日常的な意味での善を行うかどうかは、その人間の自由意志にかかっている。神はすべてのものごとを専制君主的に決めてはいない。神は創造の法を規範として与え、あるものを自然法として、またあるものを倫理規範として与えているのみである。それに対する人間の側の応答を、神は待っているのである。人間はその宗教的中枢、すなわち心をもって神に応答する。そして心は創造の法を認識しつつ神に応答するのである。(「神の法と科学・技術」)

 神は人間を神ご自身に似せて創造されたと言いました。それもロボットのようではなく、自由意志を持った存在として創造されたのです。それは人間が神と応答するためであったとも言えます。聖書には天地創造の記事がこう記されています。

 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:26~27)。

 「地を従えよ」、「すべての生き物を支配せよ」ということで、キリスト教に対して批判の声が浴びせられることを知っています。聖書のこのことばが自然環境を破壊させているというのです。「支配せよ」という訳にも問題があると思います。私は「支配せよ」というより、「管理せよ」と受け止めています。

 A.E.マクグラスも「科学と宗教」の中で、こう述べています。創造の教理は、エコロジーの敵などではなく、むしろ環境に対する人類の責任の重要さをはっきりと主張するものである、と。そして、こうも述べています。人類は科学技術によって、自然に対して覇権を振い、自ら願う目標にむけて、自然を誘導する能力を獲得したのである、と。

原爆の開発、それは核分裂を人為的に生じさせ、巨大なエネルギーを取り出し、想像を絶する破壊力を与えることです。それは、まさに神から与えられた自然法を無視して、自然に対して覇権を振った行為であったといえるのではないでしょうか。人類が生き、生活を営んでいるこの地球は、偶然に生じたものではありません。それは神の創造のみわざによるものです。神によって創造された地球とは、人類を含むすべての生物が、物質を構成する原子核が安定した環境に置かれているところなのです。私たちは、そのことに目を向け、神に敬意を表さなければならいのです。

 しかし、原爆の開発に手を貸した核物理学者と、それを指示した政治家には、預言者エレミヤのことばが届くことはなかったようです。

 

 主はこう仰せられる。

 知恵のある者は自分の知恵を誇るな。

 つわものは自分の強さを誇るな。

 富む者は自分の富みを誇るな。

 誇る者はただ、これを誇れ。

 悟りを得て、わたしを知っていることを。

 わたしは主であって、

 地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。-主の御告げ。-(エレミヤ9:13~24)

 原爆の開発に関わった核物理学者は、自分の知識だけを誇っていたのではないでしょうか。地球を創造された神は、アメリカ政府が核物理学者を動員して原爆を開発、製造し、それを広島と長崎に投下したことに対して、また、原爆の開発に手を貸した核物理学者に対して、怒り、また悲しまれたにちがいない。私はそう思います。

 東京新聞の夕刊に「大波小波」という名物コラム欄があります。昨年の11月25日のこのコラム欄に「原発推進の舞台裏」と題したコラム記事が掲載されました。それをご紹介させていただきます。

 日本の原子力関係予算が各国中でも突出していると、政策仕分けで槍玉に挙がった。原発事故半年を機に特集した米週刊誌「ニューヨーカ―」(10月17日号)の「福島からの手紙 放射性降下物」を読むと、その大盤振る舞いに合点がいく。日本人の核アレルギーを取り除くため、米政府が日本に原発推進をたき付けていたというのである。

 東西冷戦の激化の1950年代、アイゼンハワー大統領は核への反発から日本が米国離れするのではと思い悩んだ。広島、長崎の悲劇に加えて、54年3月、マグロ漁船「第5福竜丸」が水爆実験による死の灰浴び、反米世論が盛り上がったときのことである。

 大統領は国家安全保障会議で「日本からは鼻持ちならない戦争屋と見られている」とぐちった。国務長官代理は「日本人は核兵器に病的に敏感だ。原発をつくらせて原子力時代に誘い込むのがベストの対応です」と応じたと、秘密メモを基に報じている。

 これを受けて、大統領は国連総会で原子力の平和利用を宣言。日本に対し、政界では曽根康弘、民間では読売新聞者主・正力松太郎に狙いを定め、CIA(中央情報部)も加わって原発の技術、資金援助を進めたという。国際政治の世界は油断も隙もない。

 コラム記事は原発に関心を持っている人にとっては、さほど目新たしい内容のものではないかもしれません。原発に関心を持っている人の多くは、これは旧知の事実であると思いますから。

 さて、コラムが書いているように、原子力の平和利用を最初に声を出して言ったのはアイゼンハワーでした。1953年12月に、国連総会で提唱したのが最初でした。だが、アメリカは翌年の3月、アイゼンハワーの提唱がうそであったかのように、南太平洋のビキニ環礁で水爆の実験を実施しています。この実験によって、日本のマグロ漁船第5福竜丸が、いわゆる死の灰を浴びています。アイゼンハワーの前年の発言が、いかに欺瞞に満ちていたかが分かります。

 だが、コラム記事が指摘しているように、アイゼンハワーの発言が引き金となって、日本における原発の導入の道が開かれて行ったことは事実です。それは、日本人が原子力は平和利用できるのだということを信じていくことに通じていくことになります。原爆は悪だが、原発は善であるという意識を植え付けられていくのです。井上光晴はこの欺瞞性に気付いていました。しかし、私たちキリスト者はどうでしたでしょぅか。

 日本人を含めて、世界各国の著名な神学者も原爆が広島と長崎に投下されるまで、原爆が開発され、製造されていたことを知らなかったようです。原爆が投下されて、初めて原爆の存在を知ったわけです。原爆の投下を知った、欧米の神学者や牧師から、原爆投下を非難する声が上がりました。しかし、原爆を開発したことに対しての非難の声は上がったのでしょうか。

 例えば、ラインホールド・ニーバーです。彼はトルーマン大統領に原爆を投下した批判の声を上げています。しかし、ニーバーが原爆を開発したことが誤りであったと語ったことはなかったようです。逆に、ニーバーは原爆を必要悪として認めるようになります。

 ニーバーとは違って、原爆を含む核兵器のすべてに反対を表明して来た神学者のひとりがJ・ストットです。J・ストットは、まだ世界が冷戦下におかれているときでしたが、今日の教会にはキリスト教徒の行動意欲をそぐ二つの傾向があると指摘しています。一つは、核の恐ろしさを矮小化する傾向、つまり、エスカレートする核の恐怖が均衡状態をつくっていることに慣れて、核の使用を不法とする怒りの感覚を失っていく傾向、二つ目は、キリスト教徒が将来に悲観的になりすぎ、何をしても始まらないという気分をもつ傾向である、と。(『地には平和を』)。

 しかし、このストットも原爆を製造したこと、また製造することについては何も発言してこなかったのではないかと思います。原爆を開発し、製造したことの誤りを認めず、ただ原爆の廃止、核兵器の禁止を語ること、これは神の目にどう映るのでしょうか。

 井上光晴は原爆が原発と同根であることを見抜いていました。核分裂を引き起こして、エネルギーを生じさせることにおいて、原理においては、両者には違いはないからです。従って、原爆は悪で、原発は善という図式は成り立たないと思います。原爆も原発も核分裂を人為的に起こすことでは何ら変わりはないからです。

原子力を「文明」と呼ぶとしても、それを「文明」たらしめたものは原爆の開発にあったといえます。そして、原爆の管理と維持の延長線上に、原子力の平和利用を唱えて、原発が登場してきたにすぎないのではないでしょうか。

 原子力という文明を、人間が自然界を神のみこころにかなった形で、正しく管理するという使命に照らし出したとき、人間が誤りを犯したことが示されると思います。原子力文明をつくり出してしまったことは、主なる神のみこころに反することであったと認めざるを得ないからです。原爆、そしてその延長線上にある原発は、神から課せられた使命を大きく逸脱していることは明白ではないでしょうか。オランダ生まれの神学者アルバート・M・ウォルタースは、神の主権の下に置かれている歴史についてこう述べています。

 それ故、歴史の意味は神のみわざを人間が管理するという使命に照らして理解されなければなりません。創造のみわざの展開の諸段階は人間文明の諸段階に対応しています。その意味することは何かと言えば、歴史的過程を通して創造のみわざが開示されてゆくということです。もしこのことを理解しないならば、もし私たちが学校、会社企業等の諸制度や都市化、マス・メディア等の進展をもたらした歴史的分化過程を、基本的に創造のみわざの現実と人類によるその責任的管理の範囲外にあるものとして考えてしまうならば、私たちはこのような事柄、また、同様の他の事柄を、この世における神の目的に根本的に敵対するものとみなすことになりましょうし、本質的に「世俗的なもの」という印を押してしまうことになるでしょう。この場合、「世俗的」とは、宗教的に中立と考える場合もありますし、宗教についてははっきりと否定的である場合もあります。私たちの歴史に対する態度は、ポスト・インダストリアルと呼ばれる西欧の現段階における発展を否応なしに受け入れなければならぬとしても、根本的に反動的となります。

 しかしながら、もし私たちが人間の歴史や文化・社会の発展が創造のみわざ及びその展開と軌を一にするものであり、それらが罪による逸脱にもかかわらず、宇宙に対する神の御計画の外にあるものではなく、むしろ、はじめからその中に組み込まれていたものであり、これまで知らされていなかった設計図に盛り込まれていたものであることを知るならば、私たちは政治や、映画芸術、コンピューター・テクノロジ―や経営管理、発展経済学やスカイダイビングのような領域においても神に仕える積極的な可能性に対して、もっと心を開くことが出来ましょう。このことは、必ずしも現代の科学主義やテクノクラシ=、あるいは、資本主義をナイ―ブに、空想主義的に変容することを意味するのではなく、―西欧文明が、端的に言って、悲惨な世俗化の過程に支配されているということは誰もが認めるところですー、むしろ、このことは、私たちの文明をそのような過程に引き渡してしまうことを断固として拒否し、ファウスト的人間の文化建設において神の創造の御手は不在であるという主張を断固として受け入れないことを意味します。もし神が御自身の御手のわざを見捨ててしまわれないのであれば、私たちもそうしてはなりません。(「キリスト教世界観」)

 原爆もまた原発も、神の御手のわざを見捨てたことに通じています。ウォルタースがいう「非惨な世俗化」と深く関わっていると思います。「悲惨な世俗化」によって原爆が造られ、また原発が造られたと言えるのではないでしょうか。加えて、「世俗化」という現象は、キリスト教文化及びキリスト教社会が生み出してきた現象であることにも目を留めておく必要があると思います。

 17世紀の数学者であり哲学者であったルネ・デカルトの思想は、疑えるものはすべて疑おうという視点から出発していました。デカルトは正統派のカトリック信者でありましたが、人間の理性を神よりも重んじたと言われています。そこから導き出され命題が「我思う、ゆえに我あり」でした。

 デカルトによって、ヨーロッパの知識人は神の束縛から解放される道を示されました。それは、やがて啓蒙主義を生み出し、啓蒙主義は科学技術を発展させ,工業化社会をもたしました。そのことは人間が神と同等という意識をもたらしました。そして、人間に物質的進歩こそが人間社会が目指す目標であるとの思いを与えました。それは神の創造のみわざの目的を考慮せず、世俗的世界観、つまり人間中心の世界観を生み出したのです。

 人間は神によって創造され、自然界を自由に支配し、開発する権利、さらにその権利を行使することが義務であるとさえ考えるようになったのです。それは自然界の開発を通してのみ価値があると見做すようになったということでもあります。そして原爆が、またその延長にある原発が造り出した社会とは、神を無視して、人間の欲望を最優先とする世俗社会を生み出したのです。それは、文字通り井上光晴が晩年に主張し続けた、「悪霊に支配された社会」そのものであるといってもよいかもしれません。


結び、キリスト者の立ち位置

 3.11から1年が経とうとしています。昨年の10月23日、福島県の小名浜で戦前の朝鮮で、神社参拝に抵抗して、殉教した朱基徹牧師を記念する証言集会が開かれました。被災地で奮闘されてきたS牧師は、証言集会の冒頭で、福島県に原発を誘致してしまったことに、福島県人として謝罪します、と語られました。そのことを受けて、会場から別の牧師が、こう発言されました。謝罪するのは、福島の人だけではなく、この国の人すべてが謝罪しなければならないのではないか、と。

 私も3.11以来、遅まきながら原発について考え続けてきました。そして原発の根っこの部分に原爆があることに井上光晴によって気付かされました。そして、思わされました。まずなすべきことは、主なる神の前に、原爆を開発し、製造してしまった人間の過ちを認め、悔い改めるということでした。その観点から、今日は原爆を開発したことに焦点を絞って、お話させていただきました。

 だが、原子力文明とこれからどう向き合っていくのか、それが大きな課題です。「原発報道とメディア」の著者、武田徹氏は講演会で、こう語ったとキリスト新聞が報じていました。「科学技術は進んでしまったら、元には戻れない。核エネルギーを獲得してしまった人類は、その前の人類とは変わってしまっている」、と。

 とすれば、この大きなテーマを前にして、キリスト者は主なる神に導きを求めていくほかないと思います。そのためにも、より以上に、主なる神を知らなければならない。そのように考える次第です。

 日本の教会は捕囚状態に置かれている。これは親しくお付き合いさせていただいている牧師が時々口にされることばです。預言者のエゼキエルは捕囚の身とされて、バビロンに引かれて行きました。このエゼキエルが捕囚とされた地で、繰り返して語ったことばがあります。それは「わたしが主であることを知れ!」という神のことばです。エゼキエルはこのことばを、実に何と53回繰り返して語っています。原爆を開発した核物理学者に対して引用したエレミヤのことばも、主を知ることの重要さを示しています。

原爆と原発を考えることは、主なる神を知ることに尽きるように思います。主なる神を知ることで、原爆を開発したことが、神の主権を侵したことがはっきりと見えてきます。

また、同時にキリスト者に課せられた使命、預言者的使命を果たすことの大切さにも目を開かされます。預言者サムエルは、王であるサウルを恐れず語りました。

 主は主の御声に聞き従うことほどに、

 全焼のいけにえや、その他のいけにえを

 喜ばれるだろうか。

 見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、

 耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(Ⅰサムエル15:22)

また、バプテスマのヨハネは、ヘロデ王に敢然と、ヘロデが兄弟ピリポの妻ヘロデヤを娶ったことの不法を直言しています。その結果、首を刎ねられました。預言者的使命を果たすことは、敢えて言えば、いのちをかけても、語るべきことは語らなくてはならない、ということであると思います。私は、そのことを小説家井上光晴の原発小説から教えられたように思います。

| | コメント (1)

CWM2012年の集い

       原発への神学的アプローチ

   ー小説家の想像力とキリスト者の予見性ー

        

キリスト教世界観ネットワーク、第8回目の集いです。

 

昨年3月の大震災の後、日本は大きく揺れ動いています。キリスト者も、多くが被災者を支援しているだけでなく、聖書を基盤にこの出来事を考える努力を続けています。この度は、記録文学作家であり、また信徒伝道師でもある山川暁さんをお招きし、小説家を通してみた原発問題という珍しい視点、そして原発を神学的にどうとらえるかという試みを分かち合っていただきます。

この講演内容や、本ウェブサイトにある福音理解や生き方に興味や関心のある方は、是非ご参加ください。お待ちしています。

 

場所:お茶の水クリスチャンセンター9階(JRお茶の水駅より徒歩3分)

    東京都千代田区神田駿河台2−1  

    Tel:03−3296−1001

  地図:http://ochanomizu.cc/hp-2010map.php

 

日時:3月3 日(土曜) 1時30分ー4時まで

 

内容:約45分の講演。その後は互いの近況報告。

 

費用:無料、席上の自由献金あり

 

講演題:原発への神学的アプローチ 

    ー小説家の想像力とキリスト者の予見性ー


講師:山川 暁(やまかわ・あきら)さん

1941年、東京生まれ、早大、聖契神学校卒。記録文学作家、単立鶴川キリスト教会信徒伝統師。著書に「ローラースケートでアメリカを横断した」(草思社)、「ニッポン靴物語」(新潮社)、「元気晩成」(新潮社)、「満州に消えた分村ー秩父中川村開拓団顛末記」(草思社)、他、多数。

| | コメント (0)

N.T.ライトの歴史的アプローチ

 ―歴史の原点に戻って見直すキリスト教信仰

           巣鴨聖泉キリスト教会牧師 小嶋 崇

はじめに
 今回の講演は「N.T.ライトの歴史的アプローチ」についての解説ではなく、筆者がライトのアプローチを咀嚼した上で考えさせられた「現代大衆的福音理解」に対する問題提起、検証である。
 またここに書き起こした文章は当日用意した資料プリントに多少修正と補足説明を加えたものである。

 

1. 現代福音派の「福音」「救い」理解はどんなものか。

 参照のためにある教会学校の教材作成団体がどのような「救いの提示」をしているかを見てみよう。もちろん対象は子供なのである程度簡略であったり、使用される語彙が限られていたりするが、基本的アウトラインや神学的理解はそれほど違わないのではないかと思う。

私たちは正しい神さまの喜ばれないことをしています。これをと言います。嘘をついたり、けんかしたり、人を憎んだりして、たくさんの罪を犯したので、自分の罪の罰を受けないといけません。…
でも私たちを造られた神さまはあなたや私のことをとっても愛しておられるので、罪の罰から救われる方法を用意されました。それがイエスさまです。
 イエスさまは神さまのひとり子、つまり、神さまです。天国におられましたが、人間となって地球に来てくださいました。…しかし、イエスさまは神さまなので罪は何一つ犯しませんでした。その罪のないイエスさまだけが、あなたや私の罪の罰を代わりに受けることができました

神さまはイエスさまを、私たちを罪の罰から救う救い主として与えてくださったのです。だから、自分に罪があるのが分かって、イエスさまがその罪のために死んでくださったことと、よみがえられたことを信じるなら、すべての罪は赦され、天国に行くことのできる永遠のいのちをもらうことができます。聖書には「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」ヨハネ3:36。…イエスさまをあなたの救い主と信じるなら、あなたの罪の罰はすべて赦されて、天国へ行くことができるようになります。…

JCMニュースNo.132004.3「プロジェクトワイルド聖書レッスン:勝ったのは誰? 強調は筆者。)

 

現代福音派にとって「福音を語る」とは、特に大衆的な福音として「福音を語る」とは、「罪の罰から救われる方法を語る」にほぼ等しいと言えるのではないか。


2. このような「(個人的な罪からの)救いの方法」提示に用いられる「神学的説明」を「聖書」と「実際の歴史」に照らしてみよう。以下に挙げる六つのポイントはその歴史性や聖書の叙述との整合性とを検証する上で挙げてみたもので、網羅的なものではないことは言うまでもない。

 

 ①イエスの十字架刑は私たちの受けるべき罪の罰を表しているか。

 ②イエスの死が私たちの受けるべき罪の罰の代償であるとする「刑罰代償死説」は十字架刑を必須とするか。宣教途中で祭司長たちの反感を買い、彼らに殺されたら「救い」は成立しなかったか。

 ③ローマに対する反逆罪として用いられた十字架刑が私たちの贖罪のために必須であったなら、なぜイエスは即「メシヤ宣言」して暴動を起こし、ローマに捉えられて十字架刑にならなかったのか。

 ④十字架の死までの「イエスの生」は、罪を犯さないことだけに意義があったのか。

 ⑤十字架の死だけが救いのために意味があるのなら、「神の国」宣教-病人の癒し、悪霊の追い出し、神の国の教えを説く-の意味は何か。

 ⑥なぜイエスはユダヤ人として生まれる必要があったのか。イスラエル民族の歴史に何の意味があるのか。神の御子は時代・文化に関係なく降臨し一直線に死なれて贖いは完成したのか。

 

上記のような問いかけの下に「現代福音派の大衆的伝道説教、救いの方法提示」を、実際の歴史と福音書の記述とつき合わせてみると、その非歴史性、抽象的な性格が浮き彫りになってくると言えるのではないか。

 

3. 大雑把に言って、「現代福音派の大衆的伝道説教、救いの方法提示」は、十字架贖罪一辺倒になりやすく、復活は言及されたとしても救いの理解全体の中に神学的に統合されていないと言える。しかし歴史的に言って、イエスの復活がなければキリスト教は起こりえなかった。その意味で復活を基点とした福音理解でなければ十字架贖罪の論理は観念的な、非歴史的なものになってしまうと言わざるを得ない。


 当時のユダヤ人にとって十字架にかけられたメシヤは失敗の証左である。イエスの死後、弟子たちのメシヤ運動が持っていた選択肢は、①解散するか、②イエスに変わる別のメシヤ(最も可能性の高いのはイエスの兄弟ヤコブ)を立てるしかなかった、と推論できる。

 イエスの復活は、当時のユダヤ人(弟子たち)が実際に信じることは困難であった。「死者からの復活」はユダヤ人一般の信仰であったが、それは終末的な出来事で、神にある義人が一斉に復活して『来るべき世のいのち』に与るというものであった。福音書のイエスの復活描写は、その意味で弟子たちの戸惑いや不信仰の姿をそのままにしている。又十字架の出来事に比較して、復活記事には旧約聖書預言成就の言及や暗示が殆ど見当たらない。

 使徒たちのメシヤ信仰は復活の事実から遡って(旧約)聖書の記述に照合して「イエス(預言者メシヤ)の言動/行動」を検証した結果辿り得たもの、と捉えられる。

※以上三つの点についてはルカ24章の記述を参照せよ。


 

4. 改めて問われる「福音」。「福音を語る」とは何か。使徒的福音説教(ケーリュグマ)を検証する。

・Ⅰコリント15章…復活顕現と目撃者証言の中核性

 使徒の働き2章…イエスの死は「刑罰代償死」としてではなく、ユダヤ人指導者の罪として糾弾されている。

 福音書、「最後の晩餐」箇所…イエスの死の意義は「新しい契約(新しい『出エジプト』的出来事)」の基礎であり、それを発効させるもの(過越しの犠牲)として位置づけられている。

 福音書におけるイエスの十字架刑の記述には「刑罰代償死説」のような説明はなされていない。

 ガラテヤ書簡…十字架はイスラエルを代表するメシヤが被った「契約の呪い」(3:13、比、申命記28章)であり、「真の捕囚からの帰還」(1:4、比、申命記30章)である。


「現代福音派の大衆的伝道説教、救いの方法提示」は使徒的福音の視点から見ると、福音の提示ではなくその結果得られる恩恵の実を表している。福音とは「イエスはメシヤ(真のユダヤ人の王)またすべてのものの主」であることを宣言することである。この福音の宣言を聞いて信じ従う者が「神の民」に加えられ(義認)、救いを受けるのである。

 

| | コメント (0)

CWN2011年関西の集い

キリスト教世界観ネットワーク

      

201 関西の集い

 

キリスト教世界観に興味を持ち、CWNに参加してくださる方々が関東以外にも少しずつ増えてきました。いつも東京まで来ていただいていますので、3月には島先が関西に向うことにいたしました。関西地区の方、よろしかったらご参加ください。

 

  場所:滋賀県大津市比叡平

   (JR西日本湖西線 大津京駅よりバスで25

       当日11:15大津京駅前集合、11:27発のバスで比叡平に

  日時:3月18日(金曜) 12時から3時半まで

  内容:昼食後、30分の講演。その後は懇談。

  費用:無料

  講演題:「良きサマリア人のたとえ

  講師:島先克臣(しまさき かつおみ)

1954年生まれ。ゴードン・コンウェル神学校 (修士)、チェルトナム・グロースター大学(博士)過程終了。フィリピンで神学教育に携わった。「エマオ・キリスト者の集い」牧師。

  講演内容

良きサマリア人のたとえは愛の実践を教える道徳的なたとえと捉えられていると思います。ところが、そのたとえは、当時のユダヤ人のアイデンティティーを揺り動かし、み言葉に従っているつもりで、聖書の中心的な教えに背を向けていた彼らの行き方をするどく衝いたものでした。このたとえは今の私たちに何を語っているでしょうか。

    (講演内容は変更する可能性があります)

  申し込み

     出席ご希望の方は島先までご連絡ください。

     集会の場所や行き方、連絡先など詳しくお伝えします。

連絡先: 島先克臣 

Eメール:cwnjapan@yahoo.co.jp 

| | コメント (0)

CWN2011年の集い

        キリスト教信仰

    歴史の原点に戻って見直す

        

キリスト教世界観ネットワーク、第7回目の集いです。

  

キリスト教世界観の分野では哲学や神学、あるいはそれぞれの専門分野での研究が先行し、聖書そのものからのアプローチは遅れていたと言えるでしょう。その点、N.T.ライトは先駆的な研究を続けています。今回、日本では数少ないN.T.ライトの研究家、小嶋崇氏が、世界で注目されているライトのアプローチや神学理解を紹介してくれます。

 この講演内容や、本ウェブサイトにある福音理解や生き方に興味や関心のある方は、是非ご参加ください。お待ちしています。

  

場所:お茶の水クリスチャンセンター9階(JRお茶の水駅より徒歩3分)

    東京都千代田区神田駿河台2−1  

    Tel:03−3296−1001

  地図:http://ochanomizu.cc/hp-2010map.php

 

日時:2月2日(土曜) 1時30分ー4時まで

  

内容:45分の講演。その後は互いの近況報告。

  

費用:無料、席上の自由献金あり

  

講演題:「キリスト教信仰歴史の原点に戻って見直す

  

講師:小嶋 崇(こじま・たかし)先生

 1954年生まれ。巣鴨聖泉キリスト教会牧師。アズベリー神学校(M.Div.)、プリンストン神学校(Th.M.)、グラジュエート・セオロジカル・ユニオン博士過程終了。N. T. ライト読書会主宰。

  

講演内容

 「私たちの信仰は主イエス・キリストに基礎を置いています。しかし私たちが理解している主イエス・キリストは一世紀パレスチナの「ナザレのイエス」に基礎を置いているでしょうか。私たちの主イエス・キリストは、しばしば「歴史のイエス」から遊離した「信仰のキリスト」になってはいないでしょうか。
 現代最も著名な新約聖書学者、N. T. ライトは大衆福音派に根付いている「非歴史的・主観的キリスト教信仰」の見直しを迫る研究を発表されている方です。ライトの一世紀ユダヤ教研究に根ざしたイエス研究、パウロ研究は、私たちが既に知っていると思っている十字架の死と復活の意義を改めて考え直す機会を与えてくれるでしょう。」

小嶋氏のN.T.ライト読書会サイトをご覧下さい。

http://www014.upp.so-net.ne.jp/NTW-dokushokai/

N.Tライトの紹介文は面白いですよ!

http://www014.upp.so-net.ne.jp/NTW-dokushokai/introindex.htm

| | コメント (0)

講演、論文

今までの講演や論文を紹介しています。

第八回 2012年の集い

  講演題:  原発への神学的アプローチ
   
 
   講師:   山川 暁 様
             単立鶴川キリスト教会 信徒伝道師 山川 暁

第七回 2011年の集い

  講演題: N.T.ライトの歴史的アプローチ 

    講師:   
小嶋崇(こじま・たかし)先生
            巣鴨聖泉キリスト教会牧師 

第六回 2010年の集い

  講演題: 主婦として、教員として

    講師:   
岩田三枝子(いわた・みえこ)先生
            東京基督教大学神学部専任講師

第五回 2009年の集い

  講演題: キリスト教世界観と国際平和-こ こも神の御国なれば-

    講師:   豊川 慎(とよかわ・しん)先生

           明治学院大学非常勤講師

| | コメント (0)

キリスト教世界観的主婦の暮らし方

 

                                            岩田三枝子

1)キリスト教世界観との出会い

私のキリスト教世界観との出会いは、そのものと出会った時よりも、疑問を抱いたときからはじまります。私はクリスチャンホームに育ち、中学生の時に洗礼を受けました。

高校生になり、卒業後の進路として、私はどういう進路に進もうかと考える時期がきました。まずは、自分がやりたい事を考えてみました。その頃、図書館が大好きでそんな私は、大好きな本に一日中囲まれて過ごす事のできる図書館司書の仕事にあこがれました。また、その頃の私は観葉植物が大好きで、観葉植物に埋めつくされたジャングルのような部屋で過ごしていましたので、公園整備だとか、観葉植物や花を取り扱う仕事にもあこがれました。

しかし、自分の好きなことやしたい事は、年月がたてば変化してしまうかもしれません。一生涯変わることのないもの、それは、自分がクリスチャンとして生きるということだと思いました。そして、生涯の土台となる聖書の学びができる全寮制の大学が千葉に新しくできたという話を聞き、私は、その学校での学びを心待ちにするようになりました。その学校はやがて私の母校となり、そして今の勤務校ともなりました。

このようにして、私は自分の志望校を決めたわけですが、教会員の方々からの反応に私は疑問を抱くことがありました。東京基督教大学という、4年生の神学部だけの大学は、牧師だけを養成する学校ではありません。神学部ですので、もちろん聖書やキリスト教史関連の科目が重点的に学ぶ事が出来ますが、それは、一人のクリスチャンとして、一人の人間として、学び、成長し、やがて各自の働き、ある人は牧師かもしれない。ある人は、会社員かもしれない。ある人は主婦かもしれない。そういったそれぞれの道に進んでいくための土台作りの学校だと私は思っていました。ところが、「神学部に行くのね。じゃあ、卒業後は伝道師か宣教師ね」という反応を受け、もやもやするものが残りました。私は生涯の土台を築きたいから神学部で学ぼうと思っているのに、その後の働きが「伝道師」か「宣教師」に限定されるのは納得できなかったのです。しかし、高校生の私は、ふさわしい応答もできないままに、大学に進みました。

さて、私は東京基督教大学で学びを始めました。同世代とのクリスチャンたちとの寮生活は本当に楽しく、充実していました。そんな私には気にかかっている事がありました。それは、「父の悩み」です。私の父は、大学の浪人時代に教会に通い始め、クリスチャンになりました。会社員など経て、牧師になりたいと思い、私が生まれるより前ですが、神学校に少し在籍したこともありました。しかし、その後、様々な事情から神学校は退学し、家業のせんべい屋を担う事となりました。しかし、それは父にとっては仕方なくたどりついた結果であり、本望ではなく、常に、「クリスチャンとしての、自分のもっとも良い生き方は、牧師になる事だ」と思い続けていたようでした。その願いの延長なのか、近くの神学校に聴講に出かける事もありました。父の思い吹っ切る事の出来ない悩みを幼いころから見続けていた私には、ここでもなにかもやもやとした思いがありました。「牧師になる事が一流クリスチャンの生き方なのだろうか」というもやもやです。しかし、その頃の私は、やはりふさわしい応答をすることができないままに過ごしていました。

そのような私のもやもやに変化が訪れたのは、大学2年生の時です。稲垣久和先生の「キリスト教哲学概論」という科目が始まりました。

先生は、クラスの最初に、「狭義の神学」と「広義の神学」という言葉を用いられました。それこそ、キリスト教世界観そのものを表していていると言ってよい言葉だと思います。私の理解ですが、狭義の神学とは、神学部の授業でいえば、聖書学や組織神学などの科目にあたる部分です。そして、広義の神学とは、神様の創造された世界全体についての学び、同じく神学部の授業でいえば、体育であり、心理学であり、言語学であり、哲学であり、歴史学であり、音楽の事でした。神様の支配されている世界全体を学び、そのことによってさらに神理解、自己理解が深まっていくのだということが、私の中で、高校生時代に感じた違和感や、父の悩みと結びついたのです。私にとっては、それは、解決といってもよいものでした。この理解を聴いたときに、感動と安堵のあまり、授業中にも関わらず、目がしらが熱くなりました。このようにして、私はキリスト教世界観と出会いました。

2)キリスト教世界観に生きる人たちとの出会い

東京基督教大学を卒業し、さらに聖書の学びを深めてみたいと同じ敷地内の東京基督神学校に進みました。その後、北米のミシガン州にあるカルバン神学校で2年間、そして、カナダのトロントにあるキリスト教学研究所で1年間学ぶ機会が与えられました。

それぞれに、学びそのものよりも、むしろ、キリスト教世界観に生きている人たちとの交流に刺激を受けました。たとえば、カルバン神学校で出会った、隣のカルバン大学の学生は「卒業後は会計士になりたい。そして、会計士として神様の栄光を現すの」とさりげなく話します。同じようにして、小学校の教員を目指している学生も、コンピューターサイエンスの学びを深めたい学生も、自分の働く分野で神様の栄光を表したい、と話しています。ある学生は、「僕のおじいちゃんは、郵便配達だった。その仕事を通して神様の栄光を現した」という内容の事を話していました。どの分野であっても、自分の置かれた場所で、自分の働きを通して、神様の世界における栄光を現していくというキリスト教世界観の生き方が浸透している様子を目にしました。

それは、トロントのキリスト教学研究所でも同じでした。大学院ですので、仕事をしながら学びに通っている方々も多くいたのですが、ピアノ教師の人、電気工事士の人、監獄で伝道活動をしている舞台俳優夫妻、牧師、主婦などさまざまなクラスメートがいました。それぞれに、自分の働きを通してどのように神様の栄光を表す生き方ができるか、と考えていました。

そのような出会いの中から、どのような働きであっても、働きに「栄光の優劣」はなく、それぞれの栄光の表し方があるのだ、確信して、日本に帰国しました。

3)キリスト教世界観的会社員

帰国後私は、東京都内にある起業したばかりの化学品輸出会社で、派遣社員として働き始めました。

そのころ、幾人かの方々からの言葉に気になるものがありました。「神学校を卒業して、派遣社員をしているのはもったいない。せめて、教会スタッフならいいけど」というようなものでした。もちろん、私が派遣社員をしているのは、生活をするためでもあるのですが、そこでのキリスト教世界観らしい働きの意義を私なりに見つけていました。一個人の働きとして、職場に於いて、職場の方々に対しても、取引先の方々に対しても、誠実に忠実に働く事。そして、国内の化学品を仕入れ、それを韓国や中国、台湾などに輸出するという会社の働きとしては、輸出業という分野を通しても、それらの国々との友好が図られ、深められていくことは、主の栄光が表れる事だと確信しながら働いていました。

私は、「伝道するために職場に使わされている」というような言葉を聴いた事があります。でも、誤解を恐れずに言われていただくならば、伝道するために職場で働いているという事には疑問を感じています。職場の方を教会に誘ったり、4つの法則で福音を語るという事はそれもまた立派な行為だとは思うのですが、それ以上に、職場では、まず第一義的には神様がその分野に与えられた職を全うするために働くのであり、その仕事ぶりや人柄こそが神様の創造された世界を喜び、隣人を愛し、神様の栄光を表すことになると私は思っています。これが、私にとってもキリスト教世界観的職業観です。

4)キリスト教世界観的主婦業

9ヶ月後、私は母校で働き始めました。今の私は、職場では教員であり、家庭では妻であり、2歳の男の子の母であり、主婦であり、地域では一市民です。エネルギッシュな子どもとかかわるにはエネルギーが必要ですが、今しか味わえない事として、感謝しています。

ある男性の方が、「最近子供が産まれました。当たり前のように私も親ばかの仲間入りをしました」と話しておられました。私はその言葉が気に入りました。親バカである事は素晴らしい神様からのギフトであり、神の創造の御業の一つだと思います。このような子どもへのわき出る自然な思いを喜び、感謝する事。また、子どもの成長を共にになってくださる親類の方々や保育園の先生、教会の方々への感謝を言い表していく事。これは私にとっての、キリスト教的子育ての一つです。

また、家庭では、神様が私たち家族に与えてくださった住居を楽しみ、お気に入りのカーテンを掛けたり、食物を楽しみ、近所においしいラーメン屋を見つけたりしながら生活を楽しみ、喜び、感謝すること。それは、私にとってのキリスト教世界観的主婦業です。

また、私は地域の一住民です。私は築20年ほどの団地に住んでいます。20年前に植えられた団地の木々が大きく育ち、団地の中を歩いているだけでも、大きな公園を歩いているような風情です。団地ですので、2年に一度ほど、「階段委員」というものが回ってきます。団地の総会に出席したり、定期的なクリーンデーに参加したりします。そういったものに、出来る限り忠実に参加していくことや、小さな当たり前の事ですが、ゴミ出しのルールなどの地域のルールを守り、近隣の方々と挨拶を交わすこと事などは、一人の市民、一人のクリスチャンとして、大げさかもしれませんがこれもまた神様の栄光を表す、キリスト教世界観的地域住民の生き方の一つだと感じています。

また、子どもが生まれてからは、新しく「ママ友」というものができました。私はママ友との交流そのものを楽しみます。知人のクリスチャンの方が開催してくださっている月に一度の「ママと子どもの会」へのお誘いはしますが、私は伝道するために友達になったのではなく、神様が与えられた友情を喜び、感謝するために友達になったからです。それがキリスト教世界観的友情だと感じています。

私が用意した食事を息子が食べ、にっこりとしている息子の笑顔は私を幸せな気持ちにしてくれます。神様もまた、ご自身の子どもたちが神様の創造された世界を喜び、楽しむ姿をよろこんでくださるのではないでしょうか。

| | コメント (10)

キリスト教世界観ネットワークと私

藤田 浩


 私は、幼い頃からクリスチャンである母の影響を受けて、教会の幼稚園に通い、小学生の時も日曜学校に通っていました。幼稚園のク リスマスの劇で福音史家を務め、日曜学校で賛美歌を歌ったことは、今でも楽しい思い出になっています。また、小学校高学年の時には合唱団でグレゴリオ聖歌 を歌うなど、キリスト教の教えと文化には、子供の頃から親しんでいました。高校の時には、合唱部に入部したことを契機に、キリスト教の音楽にはまりまし た。そして二十歳頃には、バッハの音楽に目覚め、聖書も読むようになり、ついにはせっかく入った大学を退学して、実家のある広島の音楽大学に入り直しまし た。そこはカトリック系の大学で、私は大学院に進み、宗教音楽学を専攻しました。キリスト教に興味と親近感を抱いていた私は、神父様について公教要理を学 びましたが、なぜか洗礼までは受ける気持ちになりませんでした。


 大学院を出て、仕事を始めてからも、キリスト教の音楽と教えには興味を持ち続け、東京で編集の仕事を始めてからも、聖書関連の仕 事に携わりました。仕事ですから、自分から進んで読まなかったような聖書の箇所にも目を通しますし、聖書の研究者や考古学者の方たちとのお付き合いも始ま り、聖書への興味が増すとともに、聖書の知識も深まったように思います。また、音楽活動でも、合唱団や歌曲研究グループの中でレクチャーをするため、あら ためて聖書を読む機会がありました。けれども、洗礼を受けることを決意するのに最も影響があったのは、誠実で温かなクリスチャンの方々との出逢いでした。


仕事がなく困窮の時に助けていただいた方、「神は見捨てない」と励ま してくださった方がいらっしゃいました。こうした出逢いがなければ、今日の私はありません。そうしたクリスチャンとの出逢いによって、キリスト教の教えの 中でも、何が大切で、何を信じればいいのか、何を学べばいいのか、私自身の視座が定まってきたように思えます。


 そうしたなかでも、「キリスト教的世界観ネットワーク」の存在を知ったことが決定的な意味を持ちました。ネットワークを主宰され ている島先克臣先生とは、5年ほど前でしたか、聖書の仕事を通して知り合いました。仕事が終わっても、関わったスタッフがしばしば集まるなど、個人的な交 流が続き、時々ですが信仰の話もしていました。その時から、私の心の中ではなぜか、「洗礼を受けるとすれば島先さんだろうな」という気持ちがありました。


ある時、「キリスト教世界観ネットワーク」のウエブサイトをふとした ことで見つけ出し、会の催しがあることを知り、すぐに島先先生に連絡を取り、参加しました。なぜ、このネットワークに惹かれたのか。それは、「創造の回 復」という教えに他なりません。私はここ数年の自分の困難な状況に、時には打ちひしがれたり、あるいは他人をねたんだり、社会を呪ったりしていたと思いま す。けれども、心の奥底では救いを求めていましたし、世の中の役に立ちたいとも思っていました。けれども、私は自分がとことん無力であることも知っていま した。それで、苦しみや怒り、悲しみや救いを求める心などでがんじがらめになっていました。また、聖書を読んでいくらかの知識があることで、高慢になって いたかもしれません。そうしたかたくなな心に「創造の回復」という教えが、染み入っていったのです。


 私は長年、聖書を読んできましたが、それは自分の音楽研究に役立つ知識にするためだったように思います。自分が救いを求めている にもかかわらず、そして聖書が救いを語っているにもかかわらず、さらには、心の奥底では自分がイエス様に呼ばれていると感じていたにもかかわらず、信仰の 道に入ることには躊躇があったのです。それは、ひとえに、イエス様が創造を回復されるという福音が分かっていなかったから、実感できなかったからだと思い ます。


しかし、ネットワークの催しで、講師の先生の言葉を聞き、またウエブ サイトの文章を読み、そこに掲載されていた本を買って読んでいるうちに、キリスト教的世界観を持つことが、この私にとって、単に音楽研究の助けとなるとい うのではなく、自分の人生を変えることになると思えてきたのです。そして、洗礼を受けることの決め手になったのが、ゴヒーン先生の講演でした。講演で話さ れたことは、知識ではなく、恵みの言葉として、私には聞こえました。そして、喜びの心に満たされて帰路を急いだのでした。そして、翌日、洗礼を授けていた だきたいと島先先生に電話をかけました。


その後、生活の忙しさから教会や会の催しに顔を出すことができないで います。助けていただいた皆さんに直接お礼を申し上げることができないのは心苦しいことでもあります。でも、いつか自分も困苦にある隣人に手を差し伸べら れるようになりたいと日々を過ごしております。それが、私にとりまして、「創造の回復」にあずからせていただくことだと、今、思い直しながら、この文章を 書きました。私は子供の時から、イエス様に呼ばれていて、その声に応えるために、その力をつけるために、「今」があるのだと思います。


キリスト教世界観ネットワークの皆様、どうぞこれからもよろしくお願 いいたします。会のさらなる発展と皆様のご健勝をお祈り申し上げます。

2010年2月26日

 

 

| | コメント (0)

«CWN 2010年の集い