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2006年3月

Q & A

よく聞かれる幾つかの質問に答えます

Q-1. 私たちのよみがえりの身体とはどのようなものでしょう?

Q-2. 今の天地は一旦完全に滅びて、全く新しく天地が造られるのでしょうか?それとも、今の天地が新たにされるのでしょうか?

Q-3. あまりにも地上の生活が重要視されると、「世を愛するな」という主の戒めをやぶることにはならないでしょうか?

Q-4. 社会的責任と伝道はどのような関係にあるのでしょうか?

Q-5.キリスト教世界観と霊性のムーブメントは相容れないものですか?

Q-6. キリスト教世界観に立つ方々は無千年王国説を支持していませんか?

Q.-7 キリスト教世界観という考え方は、改革派教会の教えではないですか?

Q-8. このウェブサイトにあるような世界観を持つと、教会や教派、また教理を変えなければなりませんか?

(テキストを押しても自動的に移動しません。悪しからず!)

以下は私なりの理解です。キリスト教世界観を共有する方々で違った意見を持つ方々がおられますので、その旨御理解下さい。


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Q-1. 私たちのよみがえりの身体とはどのようなものでしょう?

A-1. 聖書には詳しく書かれていません。ただ、イエス様のよみがえりの身体は、
     1.触ることができ、食べることができる、肉体である(以前の身体と連続性がある)
     2.本人であると認識できる (連続性)
     3.壁を越えたりできる (非連続性)
ものでした。私たちも多分同じような身体をいただくことになる、と想像できます。


Q-2. 今の天地は一旦完全に滅びて、全く新しく天地が造られるのでしょうか?それとも、今の天地が新たにされるのでしょうか?

A-2. 教会の中にはその二つの立場があります。私は個人的に後者を支持しています。それはちょうど、イエス様の古い身体が一旦消滅して、全く新しい身体が造られ たわけではなく、槍の傷のある身体が新たにされたのと同様だと思います。しかし、この二つの違いは「重要なものではない」と福音派の代表的な注解書である 新国際注解書の『黙示録』の著者、ロバート・マウンスは言っています。マウンスは次のようにも言っています。「地上の一時的な世界から霊的で永遠な世界へ と魂が逃げだすことが救いである、というギリシャ的二元論と違い、聖書の思想は『地上の存在から離れた天の世界ではなく、人を常にあがなわれた地上に置 く』」(p. 368)。つまり、上記二つの立場のどちらにしても、「私たちは永遠を、地上で肉体を持って過ごすのであり、現在の主にある生活は、何らかの形で新しい地 上にもたらされる」という点では、共通しているのです。


Q-3. あまりにも地上の生活が重要視されると、「世を愛するな」という主の戒めをやぶることにはならないでしょうか?

A-3. これに関しては、『わが故郷、天にあらず』(いのちのことば社2004年)で、著者ポール・マーシャルが答えていますのでそのまま引用します。

「世」とは何?
と ころが、この時点で私たちは、「世を愛するな」と語る聖書のみ言葉を思い出すだろう。すると私達は、世界に対する自分の立場と責任を認めたり、またこの世 界を本質的によいものとして接するのに躊躇してしまう。確かに、聖書は「世」を厳しく責めている。パウロは「世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさ い。この世の有様は過ぎ去るからです。」(Iコリント七・三一)と言い、ローマ人への手紙では「この世と調子を合わせてはいけません」(十二・二)と命じ ている。ポンティオ・ピラトに向かってイエスは「わたしの国は、この世のものではありません」(ヨハネ十八・三六)と告げた。ヤコブは私達に、「この世か ら自分をきよく守」(一・二七)りなさいと語る。ヨハネによる福音書では、「あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出し たのです。それで世はあなたがたを憎むのです」(十五・十九)と言われている。
 このような例は他にも沢山あるが、だからといって、世界が良いも のであるという教えと矛盾してはいない。 それは、聖書の「世」という言葉には幾つか意味があるからだ。その一つは、この世界の罪深い面、特に社会を悪く変えて行った人間のあり方を指している。こ れが今まで、引用したみ言葉の意味だ。ローマ人への手紙十二・二をもう少し正確に訳すと「今の時代に調子を合わせてはいけません」とか、「他の人がやって いる悪をまねてはいけません」、若しくは、「あなた方の生きる基準を不信者に決めさせてはいけません」という事になる。私達は、神に逆らうこの文化ではな く、主に従うべきなのだ。
 第二は、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられ」る(マタイ二四・十四)とあるように、いわゆる地理的な場所を指している。
  第三は、神が造り、私達が住むようにした「創造された秩序」を意味する。これが創世記で使われている「世界」の意味で、神が愛して和解しようとしている世 界だ。イエスが来たのは「世をさばくためではなく、御子によって世が救われるため」(ヨハネ三・一七)だ。だから、「世を愛してはなりません」(Iヨハネ 二・十五)と言うヨハネの命令と、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ三・十六)と言うヨハネの発言の間に矛盾は ない。神は、堕落した人類が作る罪深い世を拒まれるのだが、神御自身が造られた世を愛される。私達もそれに習うべきだろう。


Q-4. 社会的責任と伝道はどのような関係にあるのでしょうか?

A-4. ロ−ザンヌ会議では、その両者が並列に置かれ、両方とも大切だと言われました。しかし、その後、福音派の中では、伝道か社会的責任かという二者択一的な論議がまだ続いています。
  その一つの原因は、伝道以外のキリスト者の使命を「社会的責任」という限られた範囲に限定したからです。福音が変革して行くのは、実は生活の全領域なので す。リージェント・カレッジの宣教学部長チャールス・リングマは、「伝道か社会的責任か、という2極化は、キリスト教の幅の広さを二つに絞ることによって 狭くしてしまう。福音は、宣教や政治・ビジネスだけでなく、学問、芸術、音楽、子育て等、生活の全領域を変革していく」と言っています。
 もう一 つの原因は、伝道の最終目的に関する意見の違いです。もし、キリスト教の救いが、「魂だけ天国へ送るもの」であるなら、はっきり言って、「社会的責任」を 果たしたり、その他の生活全体を変えて行く暇があったら、「救霊」した方がよいのです。しかしもし「神様は、御自身の造られた世界全体を見捨てずに、罪に よる歪みを回復し、ついには完成される」というのがキリスト教の救いならば、話は大分違ってきます。伝道は、「あらゆる国の人々を福音によって回復し、彼 等の生活の全領域を神様が望まれるように変えて行く」のを目指すことになります。大宣教命令は、文化命令を回復するために与えられたとも言えるでしょう。 そしてキリストがもう一度来られる時、神様が望まれたような、個人、社会、自然の在り方が全地で完成し、永遠に続くのです。
 キリストの救いをどう見るかによって、伝道と生活の関係をどうとらえるかが変わってくるのです。(詳しくは、拙著小冊子「終末の今を生きる」参照)


Q-5.キリスト教世界観と霊性のムーブメントは相容れないものですか?

A-5. 残念ながら今まではそのような誤解がされてきました。キリスト教世界観という言葉を使う方々は、一般的に社会に目が向いていて、自分の心の傷であるとか、 霊性の深みという分野は、敬虔主義的か、神秘的に聞こえ、あまり興味を持ってきませんでした。逆に霊性のムーブメントにいる方々は、世界観だけでは人は変 わらない、人の魂の深みで主に触れていただかなければならないのだ、と言う方が多いように思えます。しかし、この二分した状況は急速に変化してきていま す。リージェント・カレッジのチャールス・リングマとユージーン・ピーターソンはその良い例でしょう。リングマは、キリスト教世界観と霊性を統合しようと していて、「総合的、包括的霊性」という言葉を作り、イエス様との深い交わりの内に、生活のあらゆる分野で生き、変革して行くという意味で使っています。 トム・ライトというイギリスの新約学者が書いた『The Lord and His Prayer』( London: Triangle, 1996)は、新約学の専門家が、世界観的視点で主の祈りを釈義し思いめぐらし、分かりやすく信徒に説いたものです。これも一つの統合の形だと思います。 21世紀の福音派では、この霊性とキリスト教世界観の統合が益々進むことと思います。日本では、大阪の唄野隆先生や、東京、朝顔教会の後藤敏夫先生がよい 例ではないかと私には思えます。


Q-6. キリスト教世界観に立つ方々は無千年王国説を支持していませんか?

A-6. 千年王国説の違いを論議することは大切でしょう。しかし、それよりも大切なのは、千年より長い、永遠に続く状態ではないでしょうか?このウェブサイトで述 べているようなキリスト教世界観では、千年王国説の違いは問わず、その後の新天新地での創造秩序の完成を、終末論の中心と理解しています。(拙著小冊子 「終末の今を生きる」参照)


Q-7. キリスト教世界観という考え方は、改革派教会の教えではないですか?

A-7. 確かに歴史的には、改革派、特にオランダ改革派の伝統を受け継ぐ方々が、この言葉を使って来ました。しかし、20世紀の後半からは、いわゆる福音派主流の 中で急速に使われるようになってきています。改革派教会の教えを受け入れなくても、創造、堕落、創造秩序の回復と完成、という流れ(ストーリー)で、世界 を見る時、それは、キリスト教世界観を持っていると考えられます(「世界観とは」というページを参照して下さい。)


Q-8. このウェブサイトにあるような世界観を持つと、教会や教派、また教理を変えなければなりませんか?

A-8. いいえ。キリスト教世界観はあくまでも、ものを見る見方、メガネだからです(「世界観とは」のページを参照して下さい)。適用以前どころか、神学以前のメガネです。
  幸い、「天地万物が本来は良いものとして造られたこと、イエス様の救いが生活全体に及ぶこと、世の終わりに私たちが体を持ってよみがえること、救いが新天 新地で完成すること」と言った、このメガネのストーリーにとって基本的な点を否定するような教理や教派はありません。そこで、教会も教派も教理もそのまま でよいのです。
 それどころか、この世界観をもって伝統的な正統教理を見直すとき、より納得がいきます。キリストの救いの中心が十字架の身代わり の死による罪の赦しだけであり、救いの完成は魂が天に行くことであるとしましょう。すると、「キリストが私たちの初穂として肉体をもってよみがえり、もう 一度目に見える形で世界に戻られ、肉体をもってよみがえった私たちと新しい地上を治める」という聖書の記事は、どうもちぐはぐで、どこか回り道をしている ように感じられます。クリスチャンは死んで魂が天国に行くのだから、それ以外のこと(自分たちの復活や新しい地など)があるのはなぜだかよくわからない、 と感じてしまうかも知れません。
 しかし、キリスト教世界観に立つと、まさにそのちぐはぐで、回り道のようなものこそが、キリスト教の救いの完成なのだと見えて来ます。キリスト教世界観を持つことによって、正統教理をより包括的に理解できる、と言えるのではないでしょうか。



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世界観とは

Photo_5 はじめに
 世界観に関しては色々な説明の仕方があるのですが、ここでは私なりに、世界観の「ストーリー性」に焦点を当てて説明をしてみます。(写真:バラ©千葉光雄)

世界観は「メガネ」
 世界観と言うと、何か理論的で頭の世界という印象を持つかも知れません。ところが実際は、私たち誰もがすでに持っているものなのです。世界観とは、世界を見る枠組みのことです。私たちは、意識してはいませんが、この枠組みを通して身の回りの出来事を見ています。ですからそれはちょうど、かけていることを意識していないメガネのようです。

色々ある世界観
 この世界観(枠組み、メガネ)には、色々な種類があります。例えば、「進化論的な唯物論」という世界観(メガネ)を持てば、人も、動物も、偶然進化のプロセスを通って来たモノとして見ることになります。真善美も人間社会が生み出した相対的なものとなるでしょう。「輪廻思想」というメガネを強く持つ人は、友人の暗い性格は、前世の影響だと考えます。このように、ひとはだれでも、ある世界観(メガネ)を持っていて、それを通して現実を見、判断しているのです。これは、いわゆる思想、宗教で、進化論やキリスト教だけでなく、ニューエイジ、共産主義、仏教、イスラム教も、それぞれがひとつの世界観です。無宗教と自認する日本人も、日本人なりの世界観(メガネ)を持って生活しています。

世界観はなん層にもなるストーリー
 この世界観(メガネ)を形作るのは、普通、「過去・現在・未来」のあるストーリーです。例えば、ある進化論では、宇宙はビッグバンで始まり、現在の宇宙があり、拡散し続けて、ついには死んで行きます。古典的な共産主義は、階級闘争の歴史の最終段階に、労働者階級の勝利がある、と歴史を見ました。キリスト教もストーリー性のあるメガネです。アメリカの旧約学者レイ・ヴァン・リーウエンによると、聖書は「一貫した世界観を持っており...創造から、まだ実現していない再創造まで、という現実のストーリーを語っている」と言います。つまり聖書の世界観というのは、天地創造から天地再創造に至る「ストーリー」だというのです。クリスチャンは、このストーリーが単なるお話や解釈でなく現実であると信じています。
 上記で述べたストーリーは、宇宙のストーリーでした。しかし、ストーリーのレベルはそれだけではありません。実際私たちは何層にもなるストーリーの中で生きています。生まれてから今に至るまでの自分の人生、というのが一番身近なストーリーで、その上に家族のストーリー、自国のストーリー、それに世界の歴史をどう見るかという、世界史のレベルもあります。その一番上にあるのが、上記で見た宇宙のストーリーです。

生活に影響を与えるストーリー

 これらの何層にもなるストーリーは互いに深く関わって影響しあい、私たちの価値観、感性、霊性を形作り、日々の生活に影響を与えています。
 例えば、自分の生い立ちを考えてみましょう。親に愛され、受験に失敗せず、今までいつも順調だった人が、何かのチャンスに出会った時、かなり積極的にそれを掴んでいくかも知れません。ところが別の人が同じチャンスに出会っても、それを掴むとは限りません。いつも失敗し、自己像が低い人は、恐れがあるので身を引く可能性があります。同じビジネスチャンスを見て、成功の機会と見るか、避けるべきリスクと見るかは、性格だけでなく、その人の生い立ちが影響して来ます。生い立ち(ストーリー)が、現実の世界をどう見るかを左右するメガネ、「世界観」の働きをしています。
 自分史だけではありません。家族の歴史、郷土の歴史も世界観を形作ります。そして国の歴史もそうです。大平洋戦争中「日本国は神国であり、アジアを西洋から解放する使命がある。だから、中国、ロシアに対し勝利したのだ。これからも神風がふいて勝利する」という日本史観(ストーリー)があると、アメリカの国力がはるかに日本より勝っているにも関わらず、多くの若者が使命感を持ち、勝利を信じて命を捨てて行きました。ストーリーが如何に人の心を動かすものかが分かると思います。だからこそ教科書の歴史がどう書かれているかが、大切なのです。
 世界史も大切です。私たちの多くは欧米に対して何かしらの劣等感を持ち、自分達の文化的伝統を低く見る傾向があるかも知れません。その理由は、単に欧米が軍事的、経済的に世界を支配して来たからというだけではなく、欧米が持つ世界史観の影響を受けているという面があることを否定できないと思います(参考資料の石原 保徳 著『世界史への道』参照)。


変化するストーリー

ストーリーの変化の困難さ

 このようなストーリーが変化することを、パラダイムシフトとか改心と言われています。ですがこの変化は簡単に起るものではありません。
 何故かと言いますと、第一に、私たちのストーリー(世界観)は「メガネ」のようなもので、それを通して現実を見ていますが、普通は意識されてないので、直そうとさえ思えないのです。第二に、私たちは、何を見ても自分のストーリーに従うように無意識のうちに解釈するので、自分のストーリーが変わるどころか、それが益々強くなるのです。第三。普通は共同体(家族、教会、日本国)の中でその解釈がなされます。共同体のストーリー(世界観)は共同体を支える特徴であるが故に、共同体が個人の変化に抵抗します。第四には、私たちのストーリーは、生まれ育った共同体の文化の影響を強く受け、私たちの信頼と献身に深く関わっているので変化が難しいのです。

ストーリー変化の可能性
 しかし、パラダイムシフトや改心(ストーリーの変化)というものは、確かに可能です。これを読んでおられる方も、多分唯物論なり他宗教からキリスト教に改心された方々でしょう。アメリカ人宣教師で、中国本土の大学教育に関わっているサム・ローエン博士は、世界観とその変化に関して造詣が深い方ですが、博士によると、世界観(ストーリー)の変換は、多くの場合三つの段階を経て起こるそうです。第一は、今まで自分を支えてきた世界観が自分を支えられなくなる段階です。例えば、自分の共同体(家族、宗教等)への信頼を崩すような出来事、また、今までの自分の理解では捉えきれない挫折体験をした時、私たちは自分や共同体の考え方や信仰に疑問持ち、批判的になります。第二段階として、他の思想やあり方にオープンになり、それを一時的に取り入れて試します。第三に、その新しい見方の方が、自分と回りの世界、または聖書をよりよく説明してくれる時、その違ったあり方を自分のものとして受け入れます。そのプロセスの中で新しい世界観が無意識のうちに形成されていくのです。皆さんも多かれ少なかれ、このプロセスを通られたのではないでしょうか。

恵みにより変化するストーリー
 さて私は、「神は恵みにより御霊によって、私たちが持っている様々なレベルのストーリーを、神御自身のストーリーに近付けて下さる」と考えています。(私は神御自身のストーリーとは現実の歴史であると信じています。)
 例えばある人が、クリスマスに親からもらったプレゼント等を思い出し、「親に愛された幸いな子供時代だった」と思っているとします。ですが、「よい人間関係が築けない」と悩んでいるので、カウンセリングの本を読んだ結果、「今まで自分は親に愛されて育ったと思っていたが、実は共稼ぎの家庭で寂しかった」という自分に気付いてきます。すると、プレゼントは、時間を割けない親が、せめて高価なモノを、と思って買って来たものと見えてきます。親の愛を求めて良い子でいたし、親の愛を埋め合わせるべく勉強に打ち込んだ自分が見えてきます。自分の実績で自分を支えてきて、今一つ他者を信じられず、自分の正直な姿に直面できないので、結果的に自然な人間関係が築けなかったのだと分かって来ます。
 変化したストーリー(共稼ぎの家庭で寂しく育った)で過去の出来事(プレゼント)を見直すと、同じ過去の出来事が違った意味あい(解釈)を持ってきます。そして現在の自分を見る見方が変わり、ついには生活自体にも少しづつ変化が訪れるのです。

クリスチャンの場合
 クリスチャンの場合、ここで終わりではありません。時間がかかると思いますが、そのように寂しかったあの子供時代にも、神がおられて自分を愛して下さっていた。今の自分を無条件で実の親以上に愛して下さっている。今後も決して私を見捨てることはない、と、自分史が、神の視点で変化していきます。すると、過去の傷が少しづつ癒され、自分の生き方が変化してくるのです。私たちの個人史が、語り直され、神のストーリーに近づいて、人が人として回復していく。これは、救いがもたらす恵みだと私は思います。
 それは、個人史だけではありません。家族史にも言えることですし、日本史にも言えることです。日本人の持っている良いものが、歴史を通して神から与えられた賜物であると見えてくると、いたずらに誇ったり、あるいは自己卑下するのではなく、「では、日本人としてどのようにアジアに、また世界に貢献していったらよいか」という方向が出てきます。
 個人史から宇宙史まで、神の恵みにより、ご聖霊によって、多くの場合人を通して、ストーリーが語り直されて行く。そのプロセスで人が癒され、回復されて行くのです。聖書を専門に語る教師だけでなく、クリスチャンのカウンセラー、歴史家、政治家、思想家、活動家、等、ありとあらゆる人材が多く世に出て、癒しと回復をもたらして行って欲しいと願います。

二元論からキリスト教世界観へ

クリスチャンの二つの違ったストーリー
 さてここでキリスト教の中にも幾つかの異なるストーリーがあることに注目してみましょう。代表的なのは、二元論的なストーリーと、一元論的なストーリーです。
 二元論的なストーリーとは、新プラトン主義の影響を強く受けたストーリーです。ギリシャの思想によると、霊魂だけが善であり、清く、永遠です。物質は、悪であるか、低級です。救いというは、霊魂が肉体や目に見える世界から離れ、上なる神と一つとなることです。この思想の影響を強く受けた西洋のキリスト教は、聖書をそのストーリーに近付けた形で解釈してきました。肉体や目に見える世界は一段低いもので、ついには消滅する。そして救われた霊魂だけが天に昇り、神と一つとなるのが救い、と考えます。
 一元論的なストーリーでは、「神は目に見える世界を良いものとして造り、人間を霊肉一体のものとして最初から造った」という点から出発します。良き世界は罪によって歪められたけれども、神は目に見える世界を見捨てたり、消滅させたりせず、かえって回復し、ついには完成させる、と考えます。このストーリーでは、霊と物質を基本的には二分せず、いわんや物質を低級とは見ません。霊も物質も罪の影響で歪み、霊も物質も恵みの故に回復し、救われると見ます。

生活に与える影響
 この二つのストーリーの違いは、日々の生活にも影響を与えます。 
 教会に加わって何年か経つうちに、私は、「世界の様々な問題の原因は罪なのだから、一人でも多くの人を救いに導いていくことこそが真の解決だ。しかも、目に見えるもの全ては罪の影響を受けていて、最終的には滅びるのだから、救霊だけが永遠の価値がある」と考えるようになっていました。この考えは、二元論的ストーリーに基づいたものです。そしてこの考えを押し進めますと、この地上でなす唯一の価値あることは伝道であり、他の事はその手段となります。政治に正義を求めること、ビジネスを通して社会に仕えようとすること、よい「物作り」を目指すこと、心を込めて家事育児に向うこと、環境を守ろうとすること、よい音楽や絵画を求めていくこと、その他どんなよいことでも、それ自体では、永遠の意味も価値もない。救霊につながる「証し」になったときだけ、付属的な価値がある、ということになります。そうすると、クリスチャンは、真剣に、心から、確信と喜びをもって日常の営みができなくなってしまいます。伝道と教会生活だけはしっかりやるけれども、政治やビジネス等の残りの全ての生活は、聖書からの指針がないため、どうしても周りに流されていくのです。
 しかし、一元論的なストーリーを持つと、今この生活の現場で、神に従いどう生きるのか、が最も大切な点となってきます。文化と社会の変革に使命感を持って向かえます。皿洗いから国際政治まで、主にある労苦は、神のみ前で価値のある、無駄でないものとなってきます。
 この一元論的なストーリーは、より聖書に近い、キリスト教的なものと考えられているので、一般に「キリスト教世界観」と呼ばれています。キリスト教世界観に明確に立ったキリスト者が多く世に出て行く時、私たちは益々、地の塩、世の光として、社会に貢献できる存在となっていくでしょう。

聖書解釈に与える影響
 異なる世界観(ストーリー)は、同じ現実(聖書)を見ても、異なる解釈を生み出します。有名なヨハネ14章2節3節を考えてみましょう。そこには、「私の父の家には住まいがたくさんあります。...私が行ってあなた方に場所を備えたら、また来て、あなた方を私のもとに迎えます。」とあります。この節を二人の違った世界観(ストーリー)を持つクリスチャンが読む時、違った解釈が生じます。
 例えば、二元論的ストーリー(世界観)を持っているクリスチャンが解釈すると、イエス様が来る時というのは、自分が死ぬ時であり、「父の家」は天上となります。しかし、一元論的ストーリーを持つクリスチャンにとっては、イエス様が「来る」のは再臨の時となり、「父の家」は地上に降りてきた新しいエルサレムとなります(黙示録21、22章)。これは、同じ事実(聖書)を見ても、メガネ(世界観)によって解釈が違ってくる一つの例です。
 それ以外にも、幾つか例があげられます。ノアの箱船は、二元論的なメガネにとっては「堕落した世界が消滅して私たちの魂が天国へ行く」という救いの原型になり、一元論的なメガネにとっては「神は被造世界を消滅させずに保ち、新たにする」という救いの原型になります。
 新しいエルサレムは、天国の象徴的表現なのか、それとも新しくされた地上の描写なのか。「狼と子羊は共に草をはみ」とは、千年王国だけなのか、新しくされ永遠に続く地上でもそうなのか。またそれは、天国の象徴的表現なのか、新たにされた地上を在り方をシンボリックに伝えようとしているのか、、、、。
 今まで私たち福音派の中には「自分には前提はない。正しい解釈の方法を正しく使えば聖書の真理に客観的に到達できる」という現代主義的前提を持って来た流れがありました。確かにその科学的アプローチによって以前よりもはるかによく聖書を知れるようになりました。またストーリーが違うからと言って三位一体、信仰義認と言った根本教理が違って来るわけではありません。しかし、もし上記の例のように読者のストーリー(世界観、メガネ)が、聖書解釈に影響を与えるとすれば、私たちはストーリーの違いを、今まで以上に意識しなければならなくなるでしょう。
 今、世界で、キリスト教世界観にたった聖書神学者、組織神学者が次第に増えてきていて、この分野でも様々な成果が出てきていますので(参考資料のページ参照のこと)、今後が楽しみです。

最後に
 個人史から始まり、宇宙史まで、神の視点で語り直されて、世界観が変革していくなかで、私たちは癒され、生活全体が変化して行きます。これは神の恵みによる御霊の働きで、一生かかるプロセスです。そしてクリスチャンが互いに助け合いつつこのプロセスを歩んで行けたらと願っています。

次のページも参考にして下さい。

「聖書の語る救いを求めて(1)ギリシャ二元論の影響?」

 信仰と生活が分かれてしまう原因の一つがギリシャの二元論にあるのでは、と問題提起

「聖書の語る救いを求めて(2)旧新約聖書の教え」
 キリスト教世界観に立った旧新約聖書理解を探ります

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資料紹介

入門書

神の造られた世界は秩序あるよいものでしたが、堕 落の故に歪んでしまいました。しかし、神はキリストによって全被造世界を創造本来のあり方に回復し,また完成させようとされています。ここで紹介する小冊 子や本は、創造秩序の回復と完成というキリスト教独自の視点で書かれています。


全く初めての方は、

『わが故郷、天にあらず』(ポール・マーシャル著、いのちのことば社、2004年)

を読むと、キリスト教世界観を基盤に生きるということがどういうことか具体的な生活のなかでイメージできると思います。このサイトの一ページにこの書の一部を抜粋して紹介していますので、参考にして下さい。第二版も品切れになりました。ことば社に再版を求めていただければ幸いです。

神学的、聖書的な裏付けが必要な方は、

『キリスト者の世界観・・創造の回復』(アルバート・ウォルターズ著、聖恵授産所)

がよいでしょう。英語からの翻訳です。

原著Albert Wolters著『Creation Regained』(¥1200-1400)はamazon.co.jpで販売しています。

『終末を生きる神の民 改訂新版』(後藤 敏夫 著、21世紀ブックレット、no. 34、いのちのことば社、2007年)

この本の第一部はキリスト教世界観のストーリーを分かりやすく語っていますし、グループ研究にも相応しいと思います。しばらく絶版でしたが、ついに改訂、再版となりました。第二部では、後藤先生の心の旅がよく分かります。

 



創造の回復 小冊子シリーズ

この小冊子シリーズは、キリスト教世界観の問題を 考えて行く上で私がまとめたものです。ハードコピーは現在在庫切れですので、「・・・・でダウンロード」をクリックして直接ダウンロードしてください。


No.1『終末の今を生きる−千年王国説の違いを超えて−』(改訂版)

私達の救いは、仏教やギリシャ思想のよ うに魂が天に行くことで終わるのではありません。実は、キリストがもう一度地上に来て、私達を新しい地上によみがえらせ、全世界を変えて永遠に治めて下さ ることこそが救いの完成なのです。このキリスト教終末論は、聖書、古代教会の理解、また福音派の学者によって支持されているだけでなく、生活の現場での私 達の日々の労苦が無駄でない、と語ります。(B5版、15ページ)(改訂版は、福音派の著名な終末論者リチャード・ボーカム師の『包括的終末論』という分 類を取り入れています。)

      「1.終末.pdf」をダウンロード

 

No.2『神国論に見る新プラトン主義的霊性』

救いが天上で完成するというのは、二元論的なギリシャの異教思想です。この異教思想は5世紀前後に西方教会(ローマ教会)に入って来たようで、アウグスティヌスの神国論にもその軌跡が見いだされ、それは、宗教改革者にも影響を与えています。(B5版、6ページ)

     「2. 神国論.pdf」をダウンロード  


No.3『内村鑑三の終末観:世界観的回心の体験』

西 方教会に入って行ったギリシャの異教思想は、プロテスタントに引き継がれ、内村鑑三も二元論的な救済観を持っていました。しかし、内村は、1918年にそ れまでの救済観から脱却し、古代教会が持っていたような聖書的な救済観・終末観に開眼し、生き方が変化して行きます。(B5版、3ページ)

     「3. 内村鑑三の終末論.pdf」をダウンロード


 

No.4 デートの原則、結婚、性

婚 前交渉と堕胎をする若者の年齢は益々低年齢化しています。その背後には、自分と異性また、性と結婚に対する間違った考え方があります。この小冊子は聖書が 語る人間観、性、結婚観を出発点として、デートの原則を探ります。高校生以上の方々、中高生科のスタッフ、またご両親方にお勧めします。(B5版、13 ページ)

     「4. デートの原則.pdf」をダウンロード


No.5 世界観とは −そのストーリー性と変化の可能性−

世界観とはなんでしょうか?それは知的な理解 や信条よりも、もっと深く私たちを形作っていて、誰しもが持っているものなのです。普段は意識しないメガネのようなこの世界観に関して、その「ストーリー 性」に焦点を当てながら、私なりの理解を述べていきます。(B5版、9ページ)これはこのウェブサイトにある『世界観とは』のページと基本的には同じ内容です。

     「5. 世界観とは.pdf」をダウンロード

 

No. 6 神の救いのご計画 ー創世記から黙示録までー (正式版)

創造、堕落、贖い、完成というキリスト教の基本を、創世記から黙示録までを追っていきます。聖書全体から、イエスの救いを捉える一つの試みです。(B5版、39ページ)

    「6.神の救いのご計画.pdf」をダウンロード  

 


分野ごとの推薦書

* 印はその分野で特に推薦するものです。

これらの本の殆どは、キリスト教世界観か、それに似た立場で書かれています。

世界観入門

Colson, Charles W. and Nancy Pearcey. How Now Shall We Live? Wheaton, Il: Tyndale House Publishing, 1999.

*ポール・マーシャル著『我が故郷、天にあらず』(いのちのことば社、2004年) 本ウェブサイトで紹介。

*A・ M・ウォルタース 著『キリスト者の世界観:創造の回復』宮崎 弥男 訳、聖恵授産所、1989年。(原著Wolters, Albert. Creation Regained: Biblical Basics for a Reformational Worldview. Biblical Classics Library. Carlisle, UK: Paternoster Press, 1996.)

*Wright, N. T. The New Testament and the People of God. vol. 1. London: SPCK, 1992 (Part II参照)

世界観

Kuyper, Abraham. Lectures on Calvinism. Grand Rapids: Eerdmans,

Sire, James W. Discipleship of the Mind. Downers Grove, Il: InterVarsity Press, 1990.

哲学

*Clouser, Roy A. The Myth of Religious Neutrality. London: University of Notre Dame Press, 1991.

*春名純人『哲学と神学』

旧約神学

*Dumbrell, William J. Covenant and Creation: A Theology of the Old Testament Covenants. Biblical and Theological Classics Library. Exeter, Devon UK: Paternoster Press, 1984.

Dumbrell, William J. The End of the Beginning: Revelation 21-22 and the Old Testament. Grand Rapids: Baker Book House, 1985.

*Dumbrell, William J. The Faith of Israel: Baker Book House, 1988.

Dumbrell, William J. The Search for Order: Biblical Eschatology in Focus. Grand Rapids: Baker Book House, 1994.

Wright, Christopher J.H. Deuteronomy. New International Biblical Commentary, ed. Robert L. Hubbard and Robert K. Johnston, no. 4. Peabody, MA: Hendrickson, 1996.

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組織神学

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Bauckham, Richard. The Climax of Prophecy. Edinburgh: T&T Clark, 1993.

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現代思想

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Seerveld, Calvin. A Christian Critique of Art and Literature. rev. ed. Toronto: Tuppence Press, 1995.

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Wolterstorff, Nicholas P. Art in Action: Toward a Christian Aesthetic. Carlisle: Solway, 1997.

経済

*ボブ・ハウツワールト 著『繁栄という名の「偶像」』宮平望 訳、いのちのことば社、1993年。

唄野先生の本

教育

McCarthy, Rockne. Society, State, & Schools. Grand Rapids: Eerdmans, 1981.

宣教

*Newbigin, Lesslie. Trinitarian Doctrine for Today's Mission. Biblical Classics Library. Carlisle, UK: Paternoster Press, 1998.

*Bosch, David J. Transforming Mission: Paradigm Shifts in Theology of Mission. American Society of Missiology Series, no. 16: Orbis Books, 1991.

Conn, Harvie M. Evangelism: Doing Justice and Preaching Grace. Grand Rapids: Zondervan Publishing House, 1982.

環境問題

Basney, Lionel. An Earth-Careful Way of Life. Downers Grove, Il: InterVarsity Press, 1994.

Berry, R. J., ed. The Care of Creation: Focusing Concern and Action. Leicester, UK: InterVarsity Press, 2000.

Bruce, Donald and Don Horrocks, eds. Modifying Creation?: An Evangelical Alliance Policy Commission Report. Carlisle, UK: Paternoster Press, 2001.

*DeWitt, Calvin B. Caring for Creation: Responsible Stewardship of God's Handiwork. Grand Rapids: Eerdmans, 1998.

その他

フランシス・シェーファーの本

西洋中心史観に関して

(これは特にキリスト教世界観の立場に立つ著者によるのではありませんが、世界の歴史と日本人のアイデンテティーを考える上で重要です。『世界観とは』のストーリーとしての世界史の項を参照して下さい。)

*石原 保徳 著『世界史への道:ヨーロッパ的世界史像再考(前後篇)』、丸善ライブラリー、1999年。

ラス・カサス 著『インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述』石原 安徳 訳、現代企画室、1987年。

トーマス・R・バージャー著『コロンブスが来てから 先住民の歴史と未来』藤永 茂 訳、「朝日選書」、no. 464、朝日新聞社、1992年。

ノーム・チョムスキー著『アメリカが本当に望んでいること』益岡 賢 訳、現代企画室、1994年。

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『わが故郷、天にあらず—この世で創造的に生きる』

060508__1 「百万人の福音」の好評連載「この世界でシッカリ生きるということ」の完訳が遂に登場!

アート、政治、仕事、遊び、文化…生活のあらゆる側面で、クリスチャンはどう生きるべきか?聖書的世界観を軸に、神の像に造られた人間の本当の在り方を、息をのむような美しい描写と陽気なウィットで明快に語る。この世での生き方を問うすべてのクリスチャンに贈る、導きと励ましの一冊。  

★編集者のコメント……
これまで、聖書的観点からファッション、料理、芸術、仕事政治、文学に切り込んでいった本は、(私の記憶が正しければ)決して多くはなかったのではないでしょうか?
著者は地質学者というバックグラウンドを持ちながらも、食を愛し、芸術を愛し、政治にも積極的に関わることによって、神の造られたこの「よき」世界を、地の塩・世の光として生きることを追及し、国際的にも高い評価を得るポール・マーシャル。創造主なる神のかたちに似せて造られた人間なら、神と同じようにクリエイティブなはず! だったらもっとクリエイティブに生きようぜ! と、創世記から黙示録までの壮大なドラマを軸に、その聖書的根拠を誰にでもわかりやすく説明しています。ベテランクリスチャンもキリスト教ビギナーも、一読すれば、毎日の生活がきっと楽しくなる一冊です。ぜひ、ご一読を。(編集・こだま)

J・I・パッカーによる推薦文

ビートルズの学友だった著者は、聖書を片手に、一信徒として、遊び心を持って、今日神の世界を覆う悪と狂気のなかから、読者をあらゆる良きものによる祝宴の場に導く。この本は、(本のタイトルが語るように)刺激的で、陽気なウイットに富み、息をのむような美しい描写があふれ、罪と恵み、労働と遊び、休息とファッション、偶像礼拝に現代技術、そしてその他多くの課題に触れ、私たちを導いてくれる。多くの疲れた魂が、この本によって励まされ、癒される事を保証する。

一部抜き出し「第八章 遊びの精神」より

スコットランド西海岸にあるムル島。その西はずれにブネッサン村がある。ほとんどの観光客は、急ぎ足で別のフェリーに乗り換えて、古代の修道院とケルト人のキリスト教文化を訪ねてイオナ島に向かう。
しかし、私たちの地理学のクラスは、多くの人にとって中継地にすぎないここムル島に滞在した。ムルの山々を登り、ハンマーで岩を叩いて日中を過し、夕方にはブネッサン・アーム・インという宿に戻って夕食を取り、仲間としゃべって夜を過し、疲れてベッドに入る、という毎日だった。

ある夜のこと、宿の食堂のウエイトレスが「地元の少年たちが一緒にサッカーをしないかと尋ねている」と伝えに来た。もちろん歓迎。そこで翌夕試合と決まった。教授には「明日は試合があるのでお手柔らかに」と交渉したのだがダメだった。次の日、きつい調査の仕事を終えてへとへとになって帰ってきた私たちは、夕食もそこそこに、曲がりくねった岩道をドライブして村の後ろにある丘に向かった。

着いてみて驚いた。「地元の少年たち」というのは村のサッカー・チームだったのだ。ユニフォームに身を固めたチームには村の警官や消防隊員もいた。一日の仕事を終えてへとへとの私たちには、しりごみしたくなるような大柄のスコットランド人だった。さらにショックだったのは、村人のほとんどが観戦に来ていたことだ。コートの両側には二百人もの観客が歓声を上げていた。

そして、もう一つ驚いたことがある。それはグランドの傾斜だ。ムル島は岩だらけの島なので、いったい村にはサッカーができるような平地がどこにあるのかと、実は日中疑問に思っていたのだが、答えは簡単。「ない」のである。グランドは東に向かって傾斜し、表面はいくらか波状にうねり、そして一カ所大きな岩の頭が突き出ていた。

太陽はもう沈みかけていたので、短い試合だろうと思っていた。しかしこの淡い期待は、すぐに消え失せた。グランド脇の車が全てグランドに向かって駐車してあったのだ。実際村人は、まもなく車のエンジンをつけ、ヘッドライトのスイッチを入れた。こちらは十人しかいないので、そのままで試合が始まった。

その夜は無茶苦茶で、しかも不思議な夜だった。無茶苦茶といった理由の一つは、車のヘッドライトが地上八十センチのところで真横に光るので、プレイヤー全員の影がグランド中に伸びていたことだ。そのため、右にいるメンバーにボールをパスしないよう注意しなければならなかった。パスされたボールを取ろうとすると、その人はまっすぐヘッドライトを見つめる格好になり、何も見えなくなってしまうからだ。実際、ボールは太陽から突然飛び出してくるように見えた。

試合が進み、地元の「少年たち」にコテンパンにやられていくうちに、グランド中央の岩にボールをバウンスさせる等、私たちも地元のテクニックを覚えてきた。しかしグランドの表面が平らではないため、足首を捻挫して選手を失っていった。しかし本当に危険なのは、ボールを追いかけてサイドラインを越えてしまう時だ。観客がいる側のラインを越えるとどうなるかというと、選手のベンチや観客にぶつかってしまうのではなく、サイドラインから五十センチの所にびっしり並んで停めてある車のフロントに激突してしまうのだ。そして、これは安全な方のサイドである。

グランドの反対側は沼、ヒースの野、そして岩である。試合中のことだった。我がチームのメンバーが一人いなくなっていることに気付いたので、本来許されていないのだが、何とかタイムを取って迷子のメンバーを見つけようとした。相手チームとも肩を寄せあって集まり、最後にラルフを見たのはいつだったか思い出そうとした。その時誰かが、ラルフがヒース側に向かうボールを追っていき、何とかボールを出さずに試合を続けられた場面があった、と思い出したのだ。早速私たちはその場に駆けつけた。ラルフはボールを追いかけて勢いが余り、ヒースの野に突進、ウサギの穴に片足を突っ込んだが、足はそのままで体が前進。結果は骨折。紫色の柔らかいヒースを枕にラルフは気を失って倒れていた。

私たちは試合中止を申し入れたが、審判はある解決策を出してきた。地元の救急車の運転手が相手チームにいるので、彼がラルフを病院に連れていく。そうすれば両チームが大体同じ人数でいけるというのだ。そこで試合は続行。その後、ヒースの野でもうひとりメンバーを失ったのだが、そのケガは大したことはなかった。結局、最後まで残ったのは、我がチーム十人中六人。三対一で負けたが、それは善戦した結果で満足だった。

この大騒動がグランドで繰り広げられている間、周囲の景色は夕日の中で不思議な変化を見せていた。眼下に広がる海、遠く水平線に沈む太陽、その手前には、イオナ島を初め、伝説の島スタッファと言った島々のシルエットが見えた。入り江の反対側にはベン・モール山が見える。その平たい山頂の上を進む白い雲は山の端を越えると、海上にゆっくりと滑っていき、赤紫の壮麗な輝きの中に溶けこんで行った。試合のちょうど真ん中位だったろうか、その雲は沈む太陽の中に入り、真っ赤に光り輝いた。頭上にはすでに星がきらめいていた。

不思議な夜と言ったが、それは周囲の美しさだけではなかった。その夜自体も不思議だった。試合が終わると、村の住人のほとんどが私たちといっしょに宿に集まり、夜を楽しんだのだ。片足を引きずりながら宿に戻る途中には「もう二度とやらないぞ、こりごりだ」と言っていた私たちだったが、村人とのパーティーが続き、朝も明けようとしている頃、宿の主人から「もう一試合する気があるか」と尋ねられて、二つ返事で受けてしまった。もちろん、私たちは本当にもう一戦交わした。

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遊びは、クリスチャンにとって最も崇高な召しの一つだ。私たちの生活の多くの時間は、何かを生産したり変えたりすることに使われているが、遊びはそうではない。単純にこの世界でくつろぎ、神との平和を楽しんでいるのだ。(続く)

目次

第一部 世への恐れ
1 退屈な福音?
第二部 世にある立場
2 神の造られたこの世界と私たちの責任
3 罪との闘い
4 贖いと人の生き方
第三部 世への応答
5 学ぶすばらしさ
6 仕事とは
7 なぜ休めないのか
8 遊びの精神
9 自然界
第四部 世にある務め
10 政治的責任
11 イマジネーションと芸術
12 テクノロジーにおける自由と責任
第五部 世への希望
13 礼拝か偶像礼拝か
14 伝道、新しい生き方への招き
15 耐え忍ぶ
16 新しい創造
17 時のはざまで(今を生きる)

著者紹介

国際的に高く評価されているポール・マーシャルは、宗教的迫害については世界を代表する学者の一人だ。著書の『彼らの血は叫んでいる』は、世界中の宗教的迫害を調査してベストセラーとなり、賞も受けた。それを含めて十九冊の本を執筆編集している。マーシャルは、フリーダムAフラ−神学校、そしてキリスト教学術研究所の非常勤講師でもある。ワシントンD.C.在住。


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聖書の語る救いを求めて(2)「旧新約聖書の教え」

Photo_7 旧約聖書の流れ

私たち福音派の教会が、政治、ビジネス、芸術、音楽、環境保護等の公の世界に積極的に入っていって変革することに躊躇して しまうのは、私たちのキリスト教理解の根底にギリシャ的な霊肉二元論があるのではないか、と前ページ(聖書の語る救いをもとめて-1-)で問題提起しまし た。もしそうならば、より聖書的なキリスト教とは、どのような視点を持つのでしょう。旧約聖書の流れを概観してみましょう。(写真:ロウバイ©千葉光雄)

創造
 創造主は、太陽、空気、水、動植物等を造りました。また、それらが有機的に営まれているあり方、システム、秩序も造り、その全てを見て、「非常に良い」とされました(創世記1:31)。最後に、神は、御自身に似せて人間を造られ、「生めよ、増えよ、地を満たせ、地を従えよ、...支配せよ」(創世記1:28)とおっしゃいました。その意味は、「神を愛し、愛と正義に満ち、他の被造世界を愛情深く正しく治める共同体で地上を満たせ」というものです。地上で人間と共にいて下さる神(2:15, 19, 3:8)が中心で、神・人・自然との愛の関係に生きる人間、そしてその周りの被造世界というのが、創造本来の「非常によかった」あり方、創造の秩序なのです。

堕落
 ところが、アダムとエバ、また、その子孫である私達は、その命令に背を向け続けてきました。その結果、地上は偶像礼拝(神との関係)、搾取と戦争(人との関係)、そして環境破壊(地との関係)で満ちています。今の状態は、神が期待した創造本来の秩序にそったものではありません。人間の罪の結果なのです。

ノア
 地上に悪が増大したのを見た神は、地上の世界を水で一掃されますが、創造の時の計画を放棄したのではありません。正しいノアを選び、他の動物と共に新しい地に置き、もう水で滅ぼさないと約束し、創世記1:28の命令を繰り返して地を治めよと命じます(8:17,9:1-3)。アダムとその子孫に出来なかった、「神を愛し、愛と正義に満ち、他の被造世界を愛情深く正しく治める共同体で地上を満たす」という神の被造世界に対する計画を、ノアとその子孫に託すのです。二度目のチャンスとも言えるかも知れません。ノアの出来事は、世界が消滅して、魂が天に行くことの例話にはなりません。神が被造世界を保ちその秩序を回復するという、目に見える世界に対するコミットメントの現れなのです。

アブラハム

 しかし、ノアとその子孫も、神の期待にそえませんでした(11章)。そこで、神はアブラムを選び、カナンの地で本来の人間の共同体を作る、しかも、そのことが全世界の祝福につながる、という約束をします(12:1-3)。

律法
 ですから、旧約の律法を見ますと、先ず第一に、神を愛することが書いてあります。次に、奴隷を虐待せず正しく接すること、貧しくなった人をどの様に助けるのか等、イスラエルの社会が、愛と正義に満ちたものになるようにと、書いてあります。第三に、6日間家畜を働かせたら、一日休ませる、6年間土地を使ったら1年休ませる、というように、自然界も正しく愛情深く治めるように書いてあります。無益な森林伐採を禁じてさえいます。すなわち、神はイスラエルに律法を与えて、イスラエルが神・人・自然との愛の関係に生きる本来の人類のあり方に近づくようにと願ったのです。律法は創造秩序の回復を目指しているとも言えるでしょう。ですから、このカナンの地へ向う出エジプトは、魂が天に行くことの例話にはなりません。神が地上を回復することの現れなのです。

預言書
 しかし律法を与えられただけのイスラエルはやはり神の期待にそえませんでした。そこで、神ご自身がメシアを遣わすと預言者達は語ります。メシアが世界の王となることによって、世界中が、神を愛し、愛と正義に満ち、地を正しく愛情深く治める共同体で満ちる、と預言します。その地上の姿は、すっかり新たにされているので、新天新地と呼ばれ、それは永遠に続きます。
「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、主の御告げ。」(イザヤ66:22)

まとめ
 以上旧約聖書の流れを簡単に見てきました。旧約聖書の中で、救いとは、魂が天に帰ることではありません。それは、ギリシャのプラトン主義です。そうではなく、メシアによって地上を創造本来の在り方に回復すること、それこそが旧約聖書の救いなのです。神は、アダム、ノア、イスラエルの罪にも関わらず、全被造世界への愛、またその秩序の完成という計画を捨てません。神ご自身がメシアによってそれを成就する、と約束するのです。
 では、この旧約聖書の救いは、新約聖書になるとすっかり変わってしまうのでしょうか?地上の社会や文化はどうでもよく、魂だけ天に行けばよいという考え方に変わるのでしょうか?そうではありません。


新約聖書の教え

新約聖書は、そのメシアがついに来た、と宣言します。新約聖書は、神を中心とする創造本来の地上の姿を「神の国」(神の王としての支配)若しくは「天の御国」(天のような神のご支配)と呼んでいます。キリスト(メシア)が人として来て、十字架にかかり、復活して下さったことにより、主のご支配(神の国)が地上で始まりました。そして今、主イエスは、ご自身と一つになったクリスチャンを通して、ご聖霊によって、神の国(創造秩序の回復)を広げておられます。そして、イエスがもう一度来られる時、神の国が地上で完成し、永遠に続きます(黙示録22:5)。これが新約聖書の中心のメッセージと言えるでしょう。

主の祈り
 私たちが祈る主の祈りで、「御国に行かせたまえ」と祈らず、「御国を来らせたまえ」と祈るのは、そのためです。「み心が天で行われるように、地にもなさせたまえ(天の御国)」と祈るとおりです。そういうわけで、旧約聖書と、新約聖書の間に矛盾はありません。創世記から黙示録まで、聖書は一貫して、地上での御旨の実現を述べているのです。

生活の全領域で
 キリスト教の救いは、魂だけでなく、人間の体だけでもなく、目に見える世界全てを救います。その救いは、私たちの「地を治める」という使命を回復します。だから私たちは、政治、経済、科学、芸術、音楽、子育て、夫婦の性生活、そして皿洗いまで、生活の全てを、神のご支配に置き、創造本来の姿に回復しようとするのです。しかもその労苦は無駄になりません。主は、再び来られる時、私たちの労苦を用い、それを新しい地上で完成させて下さるからです。そして、それは永遠に続くのです。

ファッションも
 私と基本的に同じ考えをもっているチャールズ・リングマという人がいます。オーストラリア出身で、私がフィリピンで奉仕したアジア神学大学院(ATS)で何年も教え、現在は、カナダ、リージェント・カレッジの宣教学部長です。彼が2001年12月にATSで行った特別講議の中心は次のようなものでした。「伝道か社会的責任か、という2極化は、キリスト教の幅の広さを二つに絞ることによって狭くしてしまう。福音は、宣教や政治・ビジネスだけでなく、学問、芸術、音楽、子育て等、生活の全領域を変革していく。」しかも彼は、「総合的、包括的霊性」という言葉を使い、それらの生活全領域の変革が、神との深い交わりのうちになされる、と位置づけています。
 私の興味を引いたのは50代後半のリングマ師の髪型とファッションでした。長い髪を後ろに束ね、髭を生やし、ノーネクタイでスタイリッシュなファッションで講義に現れて私を驚かせました。師によれば「贅沢ではないけれども、美しいものを求めるファッション」ということもキリスト教的な「包括的霊性」の一面と理解している、と言うことでした。実生活から遊離した霊性でなく、また生活の一部だけの霊性でもない、実生活の全体を創造性豊かに変革していく霊性が、21世紀の教会と宣教に求められて行くのでしょう。


最後に

最後に、多くの方々が疑問に思う新約聖書の教理や聖書箇所について簡単に触れて、この証しを終わります。

千年王国説
 千年王国説にはいろいろありますが、今まで述べてきた視点は、特定の説を否定したり、支持したりせず、千年王国の後の新天新地の大切さを語っています。どの千年王国説の立場の人も、新天新地を信じています。

中間状態
 人が死んで復活するまでの期間を中間状態といいます。その間、人はどこにいるかという点では、パウロは天にいると言っているようであり(エペソ1:21- 24, IIコリント5:1-10)、地下で眠っているという説もあります。当時の宗教に比べ、聖書は中間状態を詳しく述べていないのが特徴です。中間状態は一時的で不完全な状態だからでしょう。

パウロ
 パウロの強調も、中間状態ではなく、キリストの再臨と私たちの復活です(Iコリント 15章)。ですから、私たちが切に待ち望んでいるのは、私たちの国籍のある天に行くことではなく、「そこ(天)から主イエス・キリストが救い主としておいでになる」ことなのです(ピリピ3:20)。またパウロは、肉体だけでなく、全被造世界の贖いを信じています(ローマ8:19以降、コロサイ1:16- 20も参照)。彼にとって、被造世界は消滅してしまうのではなく、かえって「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るのです (ローマ8:21)。

ヘブル人への手紙
 ヘブル人への手紙の著者によると、クリスチャンは「天の故郷にあこがれ...神は彼らのために都を用意しておられま」す(11:16)。この都とは、「生ける神の都、天にあるエルサレム」(12:22)で、「後に来ようとしている都」 (13:14)です。黙示録は、この「後に来」る瞬間を次のように描いています。

「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(21:2-4).

 それ以降の箇所には、神と小羊が、新しいエルサレから地上を治めている描写が続きます。ヘブル書の記者は、後の日に地上に降りて来るところの聖なる都を待ち望むように私たちを励ましています。私たちの目の涙がすっかりぬぐい去られるのは地上なのです。

ヨハネ
 ヨハネの語る永遠の命とは、終わりの日によみがえる命です(ヨハネ 6:40, 54)。主イエスは、「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」 (ヨハネ14:3)と言われたました。主が再び来られる時、主は私たちを肉体をもってよみがえらせ、地上におられる主のみ元に住まわせて下さるのです(黙示録21、22章)。

ペテロ
 ノアの洪水によって地上は清められましたが消滅しませんでした。ペテロは、天地が消えてなくなると言っているのでなく、火によって清められた「正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(IIペテロ 3:13)と語るのです。

最後に
 旧約も新約も一貫して語っているのは、魂だけ天に行くというよりも、全被造世界の回復なのだと、このシリーズで見てきました。私はここで、自分の意見や解釈が絶対的で正しいと言うつもりはありません。ただ今までのギリシャ的な見方よりも、より聖書に近いのではないだろうかという問いかけをしてきたつもりです。そして、この視点の方が、今地上で生きることに積極的な意味を与えてくれると私には思えます。
 例えば、芸術の創作活動を考えましょう。主により頼んで良い作品を生み出そうとする時、それは、証や伝道に役立つかどうか以前に、それ自体に意味があることになります。キリストの救い自体が、アーティストである神に似せて作られた人間の回復を目指しているので、福音そのものが、よい創作活動を指向しているということになるのです。しかも、その労苦は、永遠の価値があることになります。これは、皿洗いから、一国を治めることまで、あらゆる面で言えることなのです。
 今多くの福音派の学者がこの視点で聖書を読み直していて、様々な成果が出て来ています。21世紀の福音派のクリスチャンがこの視点に立ち、あらゆる分野で、召命観をもって生き生きと生きていくことを私は夢見ています。

「地上の一時的な世界から霊的で永遠な世界へと魂が逃げだすことが救いである、というギリシャ的二元論と違い、聖書の思想は『地上の存在から離れた天の世界ではなく、人を常にあがなわれた地上に置く』と(ジョージ)ラッドは強調する」(Robert H. Mounce, The Book of Revelation, The New International Commentary on the New Testament, ed. F. F. Bruce, Grand Rapids: Eerdmans, 1977, p. 368)

(この視点についてより深く知りたい方は、資料紹介のページを御覧下さい。)

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聖書の語る救いを求めて(1)「ギリシャ二元論の影響?」

Photo_6 はじめに

このページは、『体験談(1)島先克臣』 のページの続きで、そこで触れられた「福音理解の広さ」に関する体験に焦点を当て、詳しく語っています。(写真:モモ©千葉光雄)

(『聖書の語る救いを求めて』と題し、Bible & Art Ministriesの機関誌にシリーズで投稿したものです)

 

何かがおかしい

一九九七年のイギリス、秋も深まったコッツワールド地方にあるチェルトナム市。私は市内の大学院で学ぶ学生で、その日、切羽詰まった思いでキャンパスに向い、大学特別研究員クレーグ・バルソロミュー博士の部屋の扉をたたきました。

私と妻、夏子は、ある疑問を持っていました。なぜ福音派の教会は、「集会出席、献金とデボーション、飲まず酔わず、親切に愛をもって」といった、教会生活と個人倫理しか説かないのか。ライフスタイルも、ノンクリスチャンの中流のそれとあまり変わりがないのではないか、という疑問です。日本でも、イギリスでも、そしてそれ以前にいたアメリカでも教会は不思議と同じでした。例えば夏子は、一九七〇年代から「公害の原因は罪と言いながら、クリスチャンが河川汚染の原因のひとつである洗剤を無批判に使い続けるのはなぜなのか」という疑問を心に持ち続けていましたが、私自身、夏子の疑問に答えることはできず、私たちは、何かがおかしいのだが、どこがおかしいのか分からないというイライラを抱えていたのです。


ギリシャ二元論の影響

その年、大学の人文学科は様々なセミナーをシリーズで開いてきましたが、その中心人物は上記のバルソロミュー氏でした。色々な専門家が様々な立場から特別講議をしました。しかしシリーズには、一つのメッセージが貫いていたように思えます。それは、ルネッサンスを通してギリシャ思想が西洋に復興し、それが今の西洋文明とキリスト教に深い影響を与えているというものでした。個人主義、物質(消費)主義、霊と肉をはっきり分ける二元論、等です。信仰が個人の心の中と会堂に留まり、それを中々越えられない原因が次第に分かってきました。それはどうも、霊と物質を分け、後者を低く見るギリシャ思想の影響らしいのです。
 二十歳の時に入信し、牧師また宣教師をして四十を越えた自分自身を振り返ってみますと、確かにその傾向が見えました。教会に加わって何年か経つうちに、私は、「世界の様々な問題の原因は罪なのだから、一人でも多くの人を救いに導いていくことこそが真の解決だ。しかも、目に見えるもの全ては罪の影響を受けていて、最終的には滅びるのだから、救霊だけが永遠の価値がある」と考えるようになっていました。この考えは、ギリシャの思想に実によく似ているのです。そしてこの考えを押し進めますと、この地上でなす唯一の価値あることは伝道であり、他の事はその手段となります。政治に正義を求めること、ビジネスを通して社会に仕えようとすること、よい「物作り」を目指すこと、心を込めて家事育児に向うこと、環境を守ろうとすること、よい音楽や絵画を求めていくこと、その他どんなよいことでも、それ自体では、永遠の意味も価値もない。救霊につながる「証し」になったときだけ、付属的な価値がある、ということになります。そうすると、クリスチャンは、真剣に、心から、確信と喜びをもって日常の営みができなくなってしまいます。伝道と教会生活だけはしっかりやるけれども、政治やビジネス等の残りの全ての生活は、聖書からの指針がないため、どうしても周りに流されていくのです。


聖書の語る救いは?

なる程と思いました。ところが、私の心には次の疑問が出てきました。もし、今の私たち福音派がギリシャの二元論の影響を受けているとしたら、聖書は何と言っているのか、というものです。この疑問は私の心の中で益々大きくなり、ついにバルソロミュー氏の研究室の扉を叩いたのでした。氏は私の今までの歩みと疑問をよく理解してくれ、一冊の薄い本を紹介してくれました。その本は聖書の中から、非常に簡潔に、神の創造の業、人の堕落、キリストを通しての贖いと完成を語っていましたが、それ以前には私が聞いたことのない理解でした。衝撃を受けました。しかし同時に実に納得がいったのです。それ以来、私は少しづつですが、その視点で聖書を読み直しています。次号から数回に分けて、私なりの理解を御紹介したいと思います。


旧新約聖書の教え(続き)

次には、私なりの聖書理解を御紹介いたします。「旧新約聖書の教え」のページに移動して下さい。

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体験談(2)岩田三枝子さん

プロフィール

Photo_2 岩田三枝子(いわた・みえこ)。1975年生まれ。東京基督教大学神学部・東京基督神学校・カルヴァン神学校(Th.M. in Moral Theology)・キリスト教学術研究所(Master of Worldview Studies)。現在、東京基督教大学専任講師。担当科目はキリスト教世界観など。  (写真:サクラソウ©千葉光雄)


納得できないこと

初めてキリスト教世界観に出会ったのは、大学2年生の秋。大学で履修した「キリスト教哲学入門」のクラスでした。そのクラスは、私の今までの疑問、当惑を一気に吹き飛ばし、新しい視野を与えてくれました。そのときまで、私は、どうしても納得できないことがありました。高校1年生の時、生涯クリスチャンとして生きていくために、その人生の土台となる聖書を学びたい、と願って、キリスト教の大学の神学部に進学を決めました。そのとき、周囲の多くの人から「神学部にいくのね。将来は、牧師?」と質問されたのです。ところが、当の私は、牧師になるつもりは皆無でした。ただ、人生の土台作りのために、聖書知識をしっかりと身につけたい、と願っていただけです。聖書や神学は牧師になる人のためだけなのだろうか。普通のクリスチャンは、聖書を学ぶ機会はないというのかしら・・・。私は釈然としない思いを抱えたまま、神学部での学びを続けていました。そのような中で、私はキリスト教世界観に出会ったのです。


広義の神学と狭義の神学

冒頭に挙げたクラスで、「広義の神学と狭義の神学」という言葉を教授は用いました。「神論や罪論、また新約学といった科目は、狭義の意味での神学です。しかし、広義の神学があります。それは、神の創造世界についての学び、全てが含まれます。自然神学、数学、社会学、心理学・・・。それらすべては、神が創造し、そして保持しておられます。ですから、そのことを学ぶことは、広い意味で神と神の世界について学ぶことになります。それは、広義の神学です」。


どんな仕事でも、神の働き人

これは、私にとってまったく新しい視点でした。神が世界を創造された、ということは信じていました。けれども、私の中で、「神が世界を創造した」という神学的知識と、実際の日常生活はまったくかけ離れていたのです。私の周りにある豊かな自然はもちろん神の創造。それだけではなく、神が歴史の中で徐々に形作っていかれた、社会のシステムや教育、人間の複雑な心や体の仕組みに関する知恵、法律・・・それらすべても神の創造のみ業!世界についてもっと知れば、神についてもっと知ることができる。そして、それもまた神学なんだ。そして、社会の中で働くクリスチャンは、それがどんな分野の仕事であっても、神の世界で働く神の働き人なんだ。


生活の中に信仰を広げたい

私は、神の世界の豊かさと広さ、深さ、高さを十分に示してくれるこの世界観を日本のクリスチャンたちに伝えたいと願っています。生活の中に信仰を広げていくこと。初めてキリスト教世界観に触れたその日から、これが私にとっての変わらない夢であり、私を突き動かしているパッションであり続けています。

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体験談(1)島先克臣

島先克臣(しまさき かつおみ)プロフィール

1954年(昭和29年)生れ。17歳位から、人が人間らしく生きる変わらない基準を求め始め、大学の寮で出会ったクリスチャンに導かれて教会に行き、20歳の時に信仰を持ちました。その後、国内で牧師(1981-87福音自由教会)をし、フィリピン宣教(1989ー93)へ。その後、アメリカ(旧約学修士)とイギリス(ヘブル語言語学博士)で学んで再びフィリピンへ(2000ー04)。そこでは、アジア神学大学院という神学校で、旧約聖書とヘブル語を教えてきました。2004年に帰国。三児の父

Photo 現在の私の信仰は、過去の二つの大きな体験に強く影響を受けています。一つは福音理解の深さに関わる体験、もう一つは広さに関わる体験でした。その体験が『回復されつつあるひとりの人間として』という題で、百万人の福音 2002年8月号【グラビア】海外リポート「アジアに仕える」に載りました。下記はその抜粋です。  (写真:えごのき©千葉光雄)

燃え尽きて

島先克臣宣教師(四十八歳)は一昨年から、フィリピンのマニラにあるATS (Asian Theological Seminary )で、ヘブル語と旧約聖書を教えている。(中略)かつて夏子夫人と、初めてこの国に遣わされたのは一九八九年だった。(中略。その最初の)四年の任期半ばにして島先さんは深い疲労感を味わっていた。

「ハドソン・テイラーを目標に、燃え尽きてしまうくらいにがんばって、心身共に疲れ切ってしまいました。自分はどうしようもないダメな宣教師だ、神さまもダメだと思っておられるだろうと思いました。そんな時、あるリトリートでイエスさまが語ってくだったのです。『克臣、おまえが何もできないのを、わたしはわかっている。でも、わたしは何もできないおまえを、そのままで愛しているんだよ』。私は初めて福音を聞いたような気がしました。『えっ、福音ってそうだったの?』という感じでした。私は、ひたすら献身してがんばる、という時代に育ちましたから、『これが福音だったんだ』と知ったときの驚きと安堵感、解放感。それはものすごく大きなものでした。『ねばならない』を山のように積み上げてイエスさまに喜ばれるという私のキリスト教が、崩れ始めたのです。『何もやらなくて、いいの?』という驚き。『何もやらなくて、イエスさまが喜んでくださるのが、義認なんだ』と気づいた時、じゃあ自由に生きよう、と思ったのです。その時、福音の自由の大きさを、より深く味わいました。そして今も、そこに生き続けたいと思っています」

福音の深さを

「自分なりにことばにしてみると、二つのことがあると思うのです。それは結局、自分の福音の捉え方の問題だった。(もちろん今でも、福音の豊かさの一部しか味わっていないのですが……)

第一は、福音理解の深さという面です。主に赦され、救われたんだからがんばらなくちゃ、神さまに喜んでいただくために、あれもこれもしなくちゃという発想自体が、『すでに神に喜ばれている』ということを十分味わっていないところから出ていたのではなかったか。もっと霊的で立派なクリスチャンをめざしてがんばろうという、果てしない山登り。ちょっと下を見下ろして、自分のほうが少しはましなクリスチャンだなと安心したい、とまでは思っていないにしても、どこかそういうものがあった。果てしなく上に向かって、登り続けなくちゃいけない。これは福音とは違うものではないか。ただ、それだけ聞くと、じゃ、何もしないでだらだらしているのがクリスチャンか、と誤解される危険もあるのですが。とにかくイエスさまの御前で憩える安堵感というようなものがクリスチャン生活のスタートであり最後じゃないでしょうか。それが土台にあって、あとはすべてその上に立っているだけ。その土台が、どこか、この心のいちばん底になかった。でも、一晩で変わったというのではないのです。そのプロセスの中で、ヘンリ・ナーウェンの『イエスの御名で』(あめんどう出版)という本を読みながら、二時間涙が止まりませんでした。私が感じていたことをそのままことばで言い表してくれていたからです。
 私にとって、それは自分のキリスト教を根底から変える体験でした。キリスト教の定義が変わったわけだから、献身とか、召命とか、伝道者とか宣教師とか、そういうことばの定義が全部変わってしまった。それほどの大きな体験でした。イエス・キリストの十字架の救いは完全で、付け加えるものは何もない。当たり前のことなのです。私は十七年間聞いてきて、自分で伝えていながら、『えっ?』という感じでした。そうは生きていなかった。この心にイエスさまを多少でも分からせていただきました。

福音の広さを

二番目は、福音理解の広さについてでした。私にとって、かつて福音とは、非常に個人的な霊性であるとか、倫理、行いとかに限られていて、酒を飲まない、礼拝に行き、なるべく嘘をつかない、それだけの世界だった。信仰が計られる点があるとすれば、教会の中で奉仕しているか、忠実に献金しているか、何人の人を導いたかという限られた分野でしかなかった。『イエスさまの救いって、そんなに狭かった?』と、環境問題をずっと考えてきた家内はよく言っていました。公害にしても、戦争、貧富の差にしても、口では、それは罪の結果ですと言う。でも、入信してからは、そういうことはしだいに考えなくなり、行動しなくなる。『それは罪の結果です。ピリオド。では後は伝道しましょう』と。神の福音ってこれだけのものだったのかという疑問が、私たち二人の心のどこかにずっとあった。留学中訪ねたアメリカやイギリスの福音派の教会でもだいたい同じ。すごく失望していた時に、イギリスで学んでいた大学の教授に悩みをうち明けたら、これを読んでごらん、と言われて、そこで私のキリスト教がもう一歩、大きく変化したのです」
 それは、『キリスト者の世界観・・創造の回復・・』(アルバート・ウォルターズ著、聖恵授産所)という本だった。それを読んで、自分は福音派の主流にいて、正統的な福音理解をしていると思ってきたけれど、非常に狭い理解だったと、はっきり気づかされた。
 「それからの私は、こんなキリスト教聞いたことがない、というくらいうれしくて。福音って人間生活のすべてにかかわっているのか。芸術も音楽も文学も楽しみ、環境問題に取り組み、政治で正義を求め、正当なビジネスを求めていいんだ。ああ、こんなに広い世界だったのか、と感激しています。それに、自然がまた、美しく見えるんですよ。それまでは、福音というのは私にとって罪の赦しだけだったのですけど、イエスさまの救いというのは、創造の回復。つまり創造本来の人間と自然のあり方、社会のあり方を回復していくもの、という理解になったものですから、生き方そのもの、生活の全分野にかかってくるのだということがようやく分かり始めたのです。ATSの授業でも、旧約聖書の中からじっくりこの福音理解を学んでいます。すると学生たちの目が輝き始め、生活が変わり、牧会や伝道のあり方も変わって行くのです」
 自分は「宣教師」である以前に、まずクリスチャン、いや、キリストによって回復されつつあるひとりの人間だと思うようになったという。(中略)これからも、どんなところに導かれても、そこでキリスト者として、ひとりの本当の人間としてどう生きるかに取り組んでいきたい。島先さんはそう語る。

(以下略。Copyright[c]2002 by Word of Life Press Ministries. All Rights Reserved)

福音の広さに関する証しが「聖書の語る救いを求めて(1)」により詳しく載っています。

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