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Q & A

よく聞かれる幾つかの質問に答えます

Q-1. 私たちのよみがえりの身体とはどのようなものでしょう?

Q-2. 今の天地は一旦完全に滅びて、全く新しく天地が造られるのでしょうか?それとも、今の天地が新たにされるのでしょうか?

Q-3. あまりにも地上の生活が重要視されると、「世を愛するな」という主の戒めをやぶることにはならないでしょうか?

Q-4. 社会的責任と伝道はどのような関係にあるのでしょうか?

Q-5.キリスト教世界観と霊性のムーブメントは相容れないものですか?

Q-6. キリスト教世界観に立つ方々は無千年王国説を支持していませんか?

Q.-7 キリスト教世界観という考え方は、改革派教会の教えではないですか?

Q-8. このウェブサイトにあるような世界観を持つと、教会や教派、また教理を変えなければなりませんか?

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以下は私なりの理解です。キリスト教世界観を共有する方々で違った意見を持つ方々がおられますので、その旨御理解下さい。


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Q-1. 私たちのよみがえりの身体とはどのようなものでしょう?

A-1. 聖書には詳しく書かれていません。ただ、イエス様のよみがえりの身体は、
     1.触ることができ、食べることができる、肉体である(以前の身体と連続性がある)
     2.本人であると認識できる (連続性)
     3.壁を越えたりできる (非連続性)
ものでした。私たちも多分同じような身体をいただくことになる、と想像できます。


Q-2. 今の天地は一旦完全に滅びて、全く新しく天地が造られるのでしょうか?それとも、今の天地が新たにされるのでしょうか?

A-2. 教会の中にはその二つの立場があります。私は個人的に後者を支持しています。それはちょうど、イエス様の古い身体が一旦消滅して、全く新しい身体が造られ たわけではなく、槍の傷のある身体が新たにされたのと同様だと思います。しかし、この二つの違いは「重要なものではない」と福音派の代表的な注解書である 新国際注解書の『黙示録』の著者、ロバート・マウンスは言っています。マウンスは次のようにも言っています。「地上の一時的な世界から霊的で永遠な世界へ と魂が逃げだすことが救いである、というギリシャ的二元論と違い、聖書の思想は『地上の存在から離れた天の世界ではなく、人を常にあがなわれた地上に置 く』」(p. 368)。つまり、上記二つの立場のどちらにしても、「私たちは永遠を、地上で肉体を持って過ごすのであり、現在の主にある生活は、何らかの形で新しい地 上にもたらされる」という点では、共通しているのです。


Q-3. あまりにも地上の生活が重要視されると、「世を愛するな」という主の戒めをやぶることにはならないでしょうか?

A-3. これに関しては、『わが故郷、天にあらず』(いのちのことば社2004年)で、著者ポール・マーシャルが答えていますのでそのまま引用します。

「世」とは何?
と ころが、この時点で私たちは、「世を愛するな」と語る聖書のみ言葉を思い出すだろう。すると私達は、世界に対する自分の立場と責任を認めたり、またこの世 界を本質的によいものとして接するのに躊躇してしまう。確かに、聖書は「世」を厳しく責めている。パウロは「世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさ い。この世の有様は過ぎ去るからです。」(Iコリント七・三一)と言い、ローマ人への手紙では「この世と調子を合わせてはいけません」(十二・二)と命じ ている。ポンティオ・ピラトに向かってイエスは「わたしの国は、この世のものではありません」(ヨハネ十八・三六)と告げた。ヤコブは私達に、「この世か ら自分をきよく守」(一・二七)りなさいと語る。ヨハネによる福音書では、「あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出し たのです。それで世はあなたがたを憎むのです」(十五・十九)と言われている。
 このような例は他にも沢山あるが、だからといって、世界が良いも のであるという教えと矛盾してはいない。 それは、聖書の「世」という言葉には幾つか意味があるからだ。その一つは、この世界の罪深い面、特に社会を悪く変えて行った人間のあり方を指している。こ れが今まで、引用したみ言葉の意味だ。ローマ人への手紙十二・二をもう少し正確に訳すと「今の時代に調子を合わせてはいけません」とか、「他の人がやって いる悪をまねてはいけません」、若しくは、「あなた方の生きる基準を不信者に決めさせてはいけません」という事になる。私達は、神に逆らうこの文化ではな く、主に従うべきなのだ。
 第二は、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられ」る(マタイ二四・十四)とあるように、いわゆる地理的な場所を指している。
  第三は、神が造り、私達が住むようにした「創造された秩序」を意味する。これが創世記で使われている「世界」の意味で、神が愛して和解しようとしている世 界だ。イエスが来たのは「世をさばくためではなく、御子によって世が救われるため」(ヨハネ三・一七)だ。だから、「世を愛してはなりません」(Iヨハネ 二・十五)と言うヨハネの命令と、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ三・十六)と言うヨハネの発言の間に矛盾は ない。神は、堕落した人類が作る罪深い世を拒まれるのだが、神御自身が造られた世を愛される。私達もそれに習うべきだろう。


Q-4. 社会的責任と伝道はどのような関係にあるのでしょうか?

A-4. ロ−ザンヌ会議では、その両者が並列に置かれ、両方とも大切だと言われました。しかし、その後、福音派の中では、伝道か社会的責任かという二者択一的な論議がまだ続いています。
  その一つの原因は、伝道以外のキリスト者の使命を「社会的責任」という限られた範囲に限定したからです。福音が変革して行くのは、実は生活の全領域なので す。リージェント・カレッジの宣教学部長チャールス・リングマは、「伝道か社会的責任か、という2極化は、キリスト教の幅の広さを二つに絞ることによって 狭くしてしまう。福音は、宣教や政治・ビジネスだけでなく、学問、芸術、音楽、子育て等、生活の全領域を変革していく」と言っています。
 もう一 つの原因は、伝道の最終目的に関する意見の違いです。もし、キリスト教の救いが、「魂だけ天国へ送るもの」であるなら、はっきり言って、「社会的責任」を 果たしたり、その他の生活全体を変えて行く暇があったら、「救霊」した方がよいのです。しかしもし「神様は、御自身の造られた世界全体を見捨てずに、罪に よる歪みを回復し、ついには完成される」というのがキリスト教の救いならば、話は大分違ってきます。伝道は、「あらゆる国の人々を福音によって回復し、彼 等の生活の全領域を神様が望まれるように変えて行く」のを目指すことになります。大宣教命令は、文化命令を回復するために与えられたとも言えるでしょう。 そしてキリストがもう一度来られる時、神様が望まれたような、個人、社会、自然の在り方が全地で完成し、永遠に続くのです。
 キリストの救いをどう見るかによって、伝道と生活の関係をどうとらえるかが変わってくるのです。(詳しくは、拙著小冊子「終末の今を生きる」参照)


Q-5.キリスト教世界観と霊性のムーブメントは相容れないものですか?

A-5. 残念ながら今まではそのような誤解がされてきました。キリスト教世界観という言葉を使う方々は、一般的に社会に目が向いていて、自分の心の傷であるとか、 霊性の深みという分野は、敬虔主義的か、神秘的に聞こえ、あまり興味を持ってきませんでした。逆に霊性のムーブメントにいる方々は、世界観だけでは人は変 わらない、人の魂の深みで主に触れていただかなければならないのだ、と言う方が多いように思えます。しかし、この二分した状況は急速に変化してきていま す。リージェント・カレッジのチャールス・リングマとユージーン・ピーターソンはその良い例でしょう。リングマは、キリスト教世界観と霊性を統合しようと していて、「総合的、包括的霊性」という言葉を作り、イエス様との深い交わりの内に、生活のあらゆる分野で生き、変革して行くという意味で使っています。 トム・ライトというイギリスの新約学者が書いた『The Lord and His Prayer』( London: Triangle, 1996)は、新約学の専門家が、世界観的視点で主の祈りを釈義し思いめぐらし、分かりやすく信徒に説いたものです。これも一つの統合の形だと思います。 21世紀の福音派では、この霊性とキリスト教世界観の統合が益々進むことと思います。日本では、大阪の唄野隆先生や、東京、朝顔教会の後藤敏夫先生がよい 例ではないかと私には思えます。


Q-6. キリスト教世界観に立つ方々は無千年王国説を支持していませんか?

A-6. 千年王国説の違いを論議することは大切でしょう。しかし、それよりも大切なのは、千年より長い、永遠に続く状態ではないでしょうか?このウェブサイトで述 べているようなキリスト教世界観では、千年王国説の違いは問わず、その後の新天新地での創造秩序の完成を、終末論の中心と理解しています。(拙著小冊子 「終末の今を生きる」参照)


Q-7. キリスト教世界観という考え方は、改革派教会の教えではないですか?

A-7. 確かに歴史的には、改革派、特にオランダ改革派の伝統を受け継ぐ方々が、この言葉を使って来ました。しかし、20世紀の後半からは、いわゆる福音派主流の 中で急速に使われるようになってきています。改革派教会の教えを受け入れなくても、創造、堕落、創造秩序の回復と完成、という流れ(ストーリー)で、世界 を見る時、それは、キリスト教世界観を持っていると考えられます(「世界観とは」というページを参照して下さい。)


Q-8. このウェブサイトにあるような世界観を持つと、教会や教派、また教理を変えなければなりませんか?

A-8. いいえ。キリスト教世界観はあくまでも、ものを見る見方、メガネだからです(「世界観とは」のページを参照して下さい)。適用以前どころか、神学以前のメガネです。
  幸い、「天地万物が本来は良いものとして造られたこと、イエス様の救いが生活全体に及ぶこと、世の終わりに私たちが体を持ってよみがえること、救いが新天 新地で完成すること」と言った、このメガネのストーリーにとって基本的な点を否定するような教理や教派はありません。そこで、教会も教派も教理もそのまま でよいのです。
 それどころか、この世界観をもって伝統的な正統教理を見直すとき、より納得がいきます。キリストの救いの中心が十字架の身代わり の死による罪の赦しだけであり、救いの完成は魂が天に行くことであるとしましょう。すると、「キリストが私たちの初穂として肉体をもってよみがえり、もう 一度目に見える形で世界に戻られ、肉体をもってよみがえった私たちと新しい地上を治める」という聖書の記事は、どうもちぐはぐで、どこか回り道をしている ように感じられます。クリスチャンは死んで魂が天国に行くのだから、それ以外のこと(自分たちの復活や新しい地など)があるのはなぜだかよくわからない、 と感じてしまうかも知れません。
 しかし、キリスト教世界観に立つと、まさにそのちぐはぐで、回り道のようなものこそが、キリスト教の救いの完成なのだと見えて来ます。キリスト教世界観を持つことによって、正統教理をより包括的に理解できる、と言えるのではないでしょうか。



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