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第一章 『教会』(10-21)

                  小島 崇

《抜粋》

「そこで私は、間違いを犯さないよう、はっきりと信仰的で霊的と思える務めにだけ集中しようとした。確かにそうする限り、良心の咎めからは解放された。しかし同時に、壁で囲まれ、自分が生きていた世界から切り離されたような狭さや窮屈さを感じ、イライラするようになった。逆に、研究、音楽、スポーツ、その他の人間の生活のあらゆる部分に深く入っていくとき、私の心は自由でうきうきしたが、良心が痛んだ。そんなに『世的』なものを求めると、自分のクリスチャン生活に悪影響があるのではないかと心配した。たいていそのような『世的』な活動では伝道はできないし、祈りが伴うわけでもない。だから、それを正当化できなかったのだ。もちろん私は本質的に罪であることに関わっていたのではない。そうではなくて、私の疑問はクリスチャンがどのようにして『世』のことに関わったらよいのか、というものだった。」(13)

「クリスチャンがこのような受身の生き方をしてしまうにはいろいろな理由があるのだが、その決定的なものは、神の被造世界を真剣にとらえていないことにある。私たちは、『死んだ後に、体は永遠になくなって肉体のない霊となる』と言う異端の考え方を受け入れてしまった。」(20)

「私たち人間は、神の像に、しかも肉体を持つものとして造られ、地上で生きるために創造された。これが真理なのだ。もし、神が造られたこの世界で本当の意味で生きようとするならば、被造世界の良さと人類が生きる目的について聖書が何と言っているかを知らなければならない。」(20-21)

《主ポイント要約》

最初の抜粋には、青年期に回心した〝真面目な〟クリスチャンの戸惑いや悩みが浮き彫りにされている。一方で、祈り・伝道・聖書・教会の集会など〝敬虔な〟クリスチャン生活があり、もう一方で「研究、音楽、スポーツ」に没入する〝この世的な〟クリスチャン生活とがある。良心に照らせば前者が優先し、自由と充実感の充足には後者は不可欠だ。しかし二つをうまく調整できない。そんな悩みだ。

多くのクリスチャンが経験する「この世への姿勢・対処の仕方」の悩みに対し、著者は(自身の試行錯誤を通して会得したであろう)積極的・極めて肯定的「生活の諸領域の目的と意義」を提示する。先立つこの一章では、そもそも「この世」を問題視する見方が非聖書的「終末論(救いのゴール)」に由来する、と指摘する。福音派クリスチャンの「この世」に対する否定的・消極的態度が、遠くギリシャ的「霊肉二元論」に影響された見方から来ており、聖書的な「創造論(良き被造世界)」に基づく見方ではない、と言う主張である。

本書の挑発的なタイトルが示すように、著者は世界観の問題が根柢にあることを意識している。キリスト教書店に数多く並べられている〝実用書〟の類(15-16)からは一線を引き、この世界観レベルの問題として「人生の諸領域」の根本的意義付けを試みようとしている。

《インターアクション》

[※インターアクションとは、提示された内容に自由に感想を言うことです。議論に沿って討論するディスカッションより自由な性格のものです。]

筆者は米国での(長すぎた)留学経験を持つ。かなり〝保守的〟な学校を振り出しに、最後はかなり〝リベラル〟な学校で学びを終えた。その大きな巾の中で自己の(神学も含んだ)アイデンティティーを再確認しながら様々なことを吸収することができた。

最初はケンタッキー山中の聖書学校。学生の年齢も低かったが、「この世」に興味津々の彼らが何かにつけworldly, worldly とからかい合っていたことを思い出す。Worldly、つまり「この世的」と言う「否定語」「ダメ出し語」である。音楽、服装、髪型、など若者が興味を示すポップカルチャーの分野が特に学校が〝監視〟する対象であった。彼らはクリスチャンらしく〝クリーン〟カット(髪型だけでなく)を求められた。聖徒に相応しい品性はその外面においても世俗とは異なる〝標準〟を必要とした。

クリスチャン・アイデンティティーの問題と「この世」

 「この世」にあって「この世」の者ではない。
 「この世」から取られしかし「この世」に遣わされた者。
 「この世」にあって神によって召された聖徒。

「クリスチャンとは何か」、という問いに答える時しばしば「この世」が引き合いに出される。先ほどの聖書学校の生徒が使っていたworldlyと言うダメ出し語の例にもあるように、クリスチャンあるいはクリスチャン生活はしばしば「この世」との距離・違い・区別で成り立っている、と言えるのではないか。それだけ「この世」はクリスチャンの自己証明に不可欠な要素になっていると言える。「この世」と言うライバルの存在が絶えずレース(地上の生涯?)を意識させ、切磋琢磨するうちに勝利のゴール(天国?)に導くようなイメージだろうか…。つまり「この世」とは「あの世」に到達する一種の障害物レースのようなもの。

新約聖書の時代から、多くのクリスチャンにとって「天の故郷を目指し、地上では旅人・寄留者」(ヘブル11:13-16)として生きる「クリスチャン像」は最も分かりやすく又深い自己理解を与えてきたのではないだろうか。さらに「茨に落ちた種のたとえ」(マタイ13:22)や「富・マモン」に対する警戒(マタイ6:24、Ⅰテモテ6:7-10)「この世と調子を合わせるな」(ローマ12:2)の教えなどなど。新約聖書は「この世」あるいは「この世の誘惑」に対する警戒に満ちている。

迫害からキリスト教国家へ、さらに宗教改革へと時代が変わっても、この「天を目指す」クリスチャン像はそれほど変わらないで受け継がれて来たのではないだろうか。(ジョン・バンヤンの「天路歴呈」はその最も有名な文学表現と言える。)この地上はクリスチャンにとって安住の場所ではなく、むしろ「この世に心を奪われない」よう警戒しながら、ひたすら「自分の救いを全うする」(ピリピ2:12)ことを人生の主要課題として位置付けてきたのではないだろうか。

このような人生観・救済観を育まれてきたクリスチャンに対し著者は「わが故郷、天にあらず」「この世で創造的に生きる」と言うのであるから半ば議論を吹っかけているようなところがある。しかし著者が「まえがき」で断っているように(7)、かなり〝バランスに欠け〟るほど一方的に「良き被造世界とそこに生きる使命」を強調するのは、それだけ福音派クリスチャンが霊肉二元論の「めがね」を通して見る「天(国)」と「世」の固定観念に縛られている、と感じているからである。もし読者がタイトルにショックを覚え、一方的な強調に警戒感を感じるようであれば、暫く忍耐していただきたい。次章では「この世」が(29-30)、15章で「天の故郷」(241)が短いながらその語義について扱かわれている。また読み進むうちに著者がそれほどめちゃくちゃなことを言っているのではない、と気づかれることと思う。

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コメント

小嶋先生、最終章まで連載をいお続け下さり、感激しています。本当に有難うございました。貴重な助けになりました。今も何度も読んでいます。なのに、お礼をお伝えしてない事が心苦しく思いつつ、今になってしまい申し訳ありません。
日常、主と向き合いつつ過ごしていても、じっくり本と向き合い、学ぶ時間を継続しがたい私にとっても、私たちの教会も兼業主婦、介護、子育て・・昼夜問わず多忙な日常生活を過ごしている人々が集っています。私は先生の読後随想を読んでから、本を購入し、読みはじめました。頭の整理も出来て、ずいぶん助かっています。他の方にも本をお勧めする時には先生の読後随想があることをお知らせし、特に島先さんの終末論、「聖書の教える救いを求めて 旧新約の教え」のコピーを添えて、お渡ししています。
教会でも学んでいます。

私たちはこれまで、聖霊様の働きに焦点をあてて新約聖書を読んでいます。インターアクションが自由な視点、異なった視点からも参加できることを感謝します。


教会が『伝道すること』だけでなく、神の創造された世界、神の意図されている目的の起承転結を発見し、普通の人々の日常生活、人生もその貴重な神の働きの一部として委ねられている事を実感できて生かされている喜びが増している私たちです。感謝します。
普通の人々が関連付け、実感できる喜びで聖書を読んで得られるようになりました。クリスチャンが神に出会い、自分の人生に本当の意味で出会うことが出来るように、このサイトが用いられていく事、備えられた事を信じ、感謝しています。

投稿: 新天新地 | 2008/10/15 10:35

わざわざ「読後随想」へのコメントありがとうございます。
人生を旅にたとえることはよくありますが、このマーシャルような本は、主題がカバーする範囲を考えてみると、やはり旅のようなものだったと、連載を終わって感じます。
日常生活の様々な些事に没頭し、紛れ込み、振り回されるのが私たちの常です。でもそのこと自体を避けて別な世界に逃げ込むのではなく、そのただ中に意義を見出す、しかも(聖書的)世界観のような指針・方向性を得ることが大事なのだ、と言うことをこの本を通して教えられたと思います。
実際には日常些事から少し距離を取り、「問題の整理」のために「頭の整理」が必要になります。クリスチャンにとって聖書的世界観はそのための「視点」を獲得する意味があります。このウェッブサイトが、マーシャルの著書が、そして私の読後随想が、少しでも「別な視点」「新たな視点」を必要としている人に、幾分かの示唆を提供できたことを嬉しく思っています。

投稿: 小嶋 崇 | 2008/10/16 10:43

先生のコメント読ませていただいて、鮮明に思い出しました。

私の信仰の始まりは、まさに「人生の日常生活の様々な些事にまで、意義を見出し、指針・方向性を得る、その視点を獲得する。」には、どうしたら良いのか、本を読んで感銘しても、その本とは全く反対の勧めが書いてる本を読めば、又それも正しそうに思い、何が一体正しいのか、普遍的な真理というものは、見出せないのかと、捜し求めた頃は、本当に虚無的、刹那的に人生を感じていました。

紆余曲折を経て、真理は聖書に書かれている、聖書の他には、地上で神を知り、正義が何かを知る方法はない、私には分かっていないが、人生には神の意義があるようだと、聖書を信頼する生活から、聖書の神を命懸けで信じようと決断をするに至りました。

教会には何度も躓き、その頃(25年程前)、自宅に訪ねて来られた牧師に「聖書は読んでも、教会には二度と行かない。」と私が言ったそうで(私は憶えてなかったのですが)、私もそうだったように、現在でも教会とは何かを知らずに、教会堂にクリスチャンが集まっているように思います。

クリスチャンの書物の中にも様々な、「バラバラな聖書の視点」からの勧めの本が沢山あり、この世界観に出会うまでは選択に迷う事も多々ありました。

普通の人が日常の些細な中でこそ、聖書の視点、イエス様の地上での日常の姿、聖霊様の助けがあることを信じ、自分の生活を続けることの意義、神の意図された教会を見出す事ができるのではないかと思います。

この本の『視点』を通しても、与えられた人生を見つめなおし、隔離するのではなく、現実を受け入れ、この世とのコミュニケーションを深めていく中でこそ、真の礼拝者へと導かれてゆくのだと改めて思いましたし、全ての人はその途上に存在していると思います。

何かがおかしいとクリスチャン生活に疑問を持っておられる方にとって、また、そうでない方にとっても、キリスト教世界観は、人生をオーバーホールするほどに、視点が新しくされる機会となり、教会観についても、聖書的に見直すことのきっかけになると思います。

聖霊様の助けにより、そのことを確信できると思います。

説得力に溢れた、励ましになる本と読後随想、小嶋先生のコメントに感謝しています。

投稿: 新天新地 | 2008/10/23 10:42

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