« 2006年3月 | トップページ | 2006年6月 »

2006年4月

フォーラム

Photo_1

このフォーラムでは、キリスト教世界観ネットワークに参加してくださっている方々から送られてきた体験談やエッセイ等を掲載していきます。(写真:キンシバイ ©千葉光雄)

氏名とテーマをクリックして下さい。






藤田 浩 「キリスト教世界観ネットワークと私」(2010/3/1掲載)

長年キリスト教に触れて来たけれども、信仰に至らなかった藤田さん。しかし、イエス・キリストの救いは「創造の回復」なのだと知った時、洗礼を受ける決心をしました。

山川 暁 「和解と追悼ーキリスト教世界観に生きる」(2009/8/1掲載)
フィリピンに宣教師として生活し、アジア各地を訪ねた経験から、私(島先)は、過去の戦争は清算されていないと実感しています。そのような状況のなかで日本が果たし得る、平和と和解にむけての具体的な提案を山川さんがなさっています。

中島 俊男  働くことの意味」 (2009/7/30掲載)

就職して信仰を持つようになった中島さんは、自分の信仰と社会の現実の間のギャップの大きさに悩むようになりますが、その悩みをかかえたまま、仕事に忙殺され、日々が過ぎて行きました。しかしあるとき、聖書の語る労働の意味に触れて、、、。

進藤 恵美子 「素晴らしい世界」(2008/12掲載)
「サタンの働きをあまりにも過敏に意識して霊の戦いに明け暮れていたために、与えられている家族や人との繋がり、日常生活で現すべき隣人への愛や地上で果た すべき使命さえも後回しになってしまう危険を感じるようになりました。 . . . 次第に、心身ともに疲れを覚えるようになり、家庭生活にも歪みが出てきました。. . . そのような時、出会ったのが「キリスト教世界観ネットワーク」のウェブサイトでした。」と語る進藤さん。

近藤 和子 「この世を我が家に」(2006/09/08掲載)
「私は、家族を救いに導く事が出来なかった事や、離婚した事等を思う時…次第にクリスチャンとして肩身の狭い思いを抱く様になりました」と、重い気持ちで信仰生活を送っていた近藤さんは、ある時ポール・マーシャルの本と出会う。

岩田 三枝子 「生活のすべてに」(2006/08/15掲載)
「ある夏の昼下がり、玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けてみると、懐かしい顔がそこに立っていた。」と始まる短いエッセイ。東京基督教大学で「キリスト教世界観」を教える岩田さんが「キリスト教世界観は生活のすべてに現れてくる」と語る。

鈴木 桂子 「再び絵筆を取って」(2006/04/16掲載)
40年もの長く苦しい「荒野」の歩みを通してたどり着いた、主にある恵みの生活を語る。

| | コメント (0)

第一章 『教会』(10-21)

                  小島 崇

《抜粋》

「そこで私は、間違いを犯さないよう、はっきりと信仰的で霊的と思える務めにだけ集中しようとした。確かにそうする限り、良心の咎めからは解放された。しかし同時に、壁で囲まれ、自分が生きていた世界から切り離されたような狭さや窮屈さを感じ、イライラするようになった。逆に、研究、音楽、スポーツ、その他の人間の生活のあらゆる部分に深く入っていくとき、私の心は自由でうきうきしたが、良心が痛んだ。そんなに『世的』なものを求めると、自分のクリスチャン生活に悪影響があるのではないかと心配した。たいていそのような『世的』な活動では伝道はできないし、祈りが伴うわけでもない。だから、それを正当化できなかったのだ。もちろん私は本質的に罪であることに関わっていたのではない。そうではなくて、私の疑問はクリスチャンがどのようにして『世』のことに関わったらよいのか、というものだった。」(13)

「クリスチャンがこのような受身の生き方をしてしまうにはいろいろな理由があるのだが、その決定的なものは、神の被造世界を真剣にとらえていないことにある。私たちは、『死んだ後に、体は永遠になくなって肉体のない霊となる』と言う異端の考え方を受け入れてしまった。」(20)

「私たち人間は、神の像に、しかも肉体を持つものとして造られ、地上で生きるために創造された。これが真理なのだ。もし、神が造られたこの世界で本当の意味で生きようとするならば、被造世界の良さと人類が生きる目的について聖書が何と言っているかを知らなければならない。」(20-21)

《主ポイント要約》

最初の抜粋には、青年期に回心した〝真面目な〟クリスチャンの戸惑いや悩みが浮き彫りにされている。一方で、祈り・伝道・聖書・教会の集会など〝敬虔な〟クリスチャン生活があり、もう一方で「研究、音楽、スポーツ」に没入する〝この世的な〟クリスチャン生活とがある。良心に照らせば前者が優先し、自由と充実感の充足には後者は不可欠だ。しかし二つをうまく調整できない。そんな悩みだ。

多くのクリスチャンが経験する「この世への姿勢・対処の仕方」の悩みに対し、著者は(自身の試行錯誤を通して会得したであろう)積極的・極めて肯定的「生活の諸領域の目的と意義」を提示する。先立つこの一章では、そもそも「この世」を問題視する見方が非聖書的「終末論(救いのゴール)」に由来する、と指摘する。福音派クリスチャンの「この世」に対する否定的・消極的態度が、遠くギリシャ的「霊肉二元論」に影響された見方から来ており、聖書的な「創造論(良き被造世界)」に基づく見方ではない、と言う主張である。

本書の挑発的なタイトルが示すように、著者は世界観の問題が根柢にあることを意識している。キリスト教書店に数多く並べられている〝実用書〟の類(15-16)からは一線を引き、この世界観レベルの問題として「人生の諸領域」の根本的意義付けを試みようとしている。

《インターアクション》

[※インターアクションとは、提示された内容に自由に感想を言うことです。議論に沿って討論するディスカッションより自由な性格のものです。]

筆者は米国での(長すぎた)留学経験を持つ。かなり〝保守的〟な学校を振り出しに、最後はかなり〝リベラル〟な学校で学びを終えた。その大きな巾の中で自己の(神学も含んだ)アイデンティティーを再確認しながら様々なことを吸収することができた。

最初はケンタッキー山中の聖書学校。学生の年齢も低かったが、「この世」に興味津々の彼らが何かにつけworldly, worldly とからかい合っていたことを思い出す。Worldly、つまり「この世的」と言う「否定語」「ダメ出し語」である。音楽、服装、髪型、など若者が興味を示すポップカルチャーの分野が特に学校が〝監視〟する対象であった。彼らはクリスチャンらしく〝クリーン〟カット(髪型だけでなく)を求められた。聖徒に相応しい品性はその外面においても世俗とは異なる〝標準〟を必要とした。

クリスチャン・アイデンティティーの問題と「この世」

 「この世」にあって「この世」の者ではない。
 「この世」から取られしかし「この世」に遣わされた者。
 「この世」にあって神によって召された聖徒。

「クリスチャンとは何か」、という問いに答える時しばしば「この世」が引き合いに出される。先ほどの聖書学校の生徒が使っていたworldlyと言うダメ出し語の例にもあるように、クリスチャンあるいはクリスチャン生活はしばしば「この世」との距離・違い・区別で成り立っている、と言えるのではないか。それだけ「この世」はクリスチャンの自己証明に不可欠な要素になっていると言える。「この世」と言うライバルの存在が絶えずレース(地上の生涯?)を意識させ、切磋琢磨するうちに勝利のゴール(天国?)に導くようなイメージだろうか…。つまり「この世」とは「あの世」に到達する一種の障害物レースのようなもの。

新約聖書の時代から、多くのクリスチャンにとって「天の故郷を目指し、地上では旅人・寄留者」(ヘブル11:13-16)として生きる「クリスチャン像」は最も分かりやすく又深い自己理解を与えてきたのではないだろうか。さらに「茨に落ちた種のたとえ」(マタイ13:22)や「富・マモン」に対する警戒(マタイ6:24、Ⅰテモテ6:7-10)「この世と調子を合わせるな」(ローマ12:2)の教えなどなど。新約聖書は「この世」あるいは「この世の誘惑」に対する警戒に満ちている。

迫害からキリスト教国家へ、さらに宗教改革へと時代が変わっても、この「天を目指す」クリスチャン像はそれほど変わらないで受け継がれて来たのではないだろうか。(ジョン・バンヤンの「天路歴呈」はその最も有名な文学表現と言える。)この地上はクリスチャンにとって安住の場所ではなく、むしろ「この世に心を奪われない」よう警戒しながら、ひたすら「自分の救いを全うする」(ピリピ2:12)ことを人生の主要課題として位置付けてきたのではないだろうか。

このような人生観・救済観を育まれてきたクリスチャンに対し著者は「わが故郷、天にあらず」「この世で創造的に生きる」と言うのであるから半ば議論を吹っかけているようなところがある。しかし著者が「まえがき」で断っているように(7)、かなり〝バランスに欠け〟るほど一方的に「良き被造世界とそこに生きる使命」を強調するのは、それだけ福音派クリスチャンが霊肉二元論の「めがね」を通して見る「天(国)」と「世」の固定観念に縛られている、と感じているからである。もし読者がタイトルにショックを覚え、一方的な強調に警戒感を感じるようであれば、暫く忍耐していただきたい。次章では「この世」が(29-30)、15章で「天の故郷」(241)が短いながらその語義について扱かわれている。また読み進むうちに著者がそれほどめちゃくちゃなことを言っているのではない、と気づかれることと思う。

| | コメント (3)

小嶋崇さんによる『わが故郷天にあらず』の読書随想(連載)

060508__2 このコーナーはポール・マーシャル(島先克臣訳)『わが故郷、天にあらず― この世で創造的に生きる』の読書随想(連載)です。

既にこの本を読んだ方も、これから読もうとしている方も、この本で扱われているテーマ(神の被造世界で創造的に生きる)、またそのテーマのもとで取り上げられている人生の諸領域(召命)に対する自分なりの見方・考え方を引出す一助になれば、と願っています。 

 連載を始めるにあたって:
・一章づつ取り上げます。
・なるべく短い文章にするためポイントを絞ります。
・構成は、《抜粋》《主ポイント要約》《インターアクション》となります。

この本の最も興味深い部分は各章に散りばめられた著者自身のユーモアに富んだ個人的エピソードではないかと思います。しかしこの読書随想ではその部分にではなく、本の、また各章の主張や議論の構成・組立に焦点を絞るつもりです。

筆者の場合牧師と言う事もあり、《主ポイント要約》や《インターアクション》にはしばしば「神学」用語が出てくると思います。また筆者にとって関心の深い「(宗教)社会学」からの関連付けも顔を出すと思います。その点では視点の限られた《主ポイント要約》《インターアクション》ですが、きっと別の背景や関心を持つ読者の方々が〝異なる視点〟からの《インターアクション》を寄せてくれるものと期待しています。

ではよろしくお願いします。

巣鴨聖泉キリスト教会
  牧師 小嶋 崇

下記をクリックして下さい。

2006年 5月  第一章 『教会』

2006年 6月  第二章 『神の造られたこの世界と私たちの責任』

2006年 7月 第三章 『罪との闘い』

2006年 8月 第四章 『贖いと人の生き方』

2006年 9月 第五章 『学ぶ素晴らしさ』

2006年10月 第六章 『仕事とは』

2006年11月 第七章 『なぜ休めないのか』

2006年12月 第八章 『遊びの精神』

2007年 1月 第九章 『自然界』

2007年 3月 第十章 『政治』

2007年 5月 第十一章 『イマジネーションと芸術』

2007年 7月 第十二章 『テクノロジーにおける自由と責任』

2007年 10月 第十三章 『礼拝か偶像礼拝か』

2008年 1月 第十四章 『伝道、新しい生き方への招き』

2008年 4月 第十五章 『耐え忍ぶ』

2008年 7月 第十六章 『新しい創造』

2008年 10月 第十七章 『時のはざまで』

 

| | コメント (0)

再び絵筆を取って

この度、40余年に渡るまさに荒野をさまようが如くの関東での生活を終え、リタイヤした夫と伴に故郷の関西へ移り住むことになりました。山桜が美しい山荘で、小鳥の声を聞きながら朝のミルクティを二杯飲み、三杯目を持って画室に入り、絵と格闘している中に、もう昼食の時間です。飲み忘れたミルクティが冷たくなり、手は油と絵の具まみれです。絵を描いているといつも思うことですが、こんなに楽しいことをさせていただけるのなら、もう何もいらないと私は本当にそう思います。これほどまでに思いを越えた幸いな時を用意して下さった主に感謝を覚えない日はありません。

先程、荒野の40年と申しましたが、洗礼を受けたのが38年前ですから、それ以前の教会生活を含め、結婚、出産、育児、夫の両親とのかかわり等、それはもう聖書とはかけ離れた世界で翻弄され、あらゆる努力は裏目に出て、疲労困憊の日々を過ごして来たような気がいたします。

そのような中で、信仰の確信を得ようと、益々熱心な教会生活に励んで行きました。即ち、集会への皆出席や、家族を後回しにしても奉仕の時間を多く、といった生活です。何かが違うと感じるようになりましたが、そこから抜け出すことはできず,求めていた神様からのはっきりした確信も得られないままでした。また説教を聴く度にしかられている気がしていました。今思えば,私の思い間違いや不信仰から発していたことだったのでしょう。

ところが10年程前にバイブル・アンド・アート・ミニストリーズという働きをしておられる町田俊之先生にお出会いし、そのクラスに出て学んで行く中で、すっかり忘れていた絵の世界と小学生の時に始めた油絵にカムバックすることが出来ました。そしてクリスチャン画家で有名な渡辺総一先生の指導を受け基礎から学び直しました。それから8年後、関西に行くためのお別れの際に先生は記念の画集を下さって「これからは絵にカムバックできた喜びを全身で表していた初期に戻って自由に楽しく描いて行くように」と励まして下さいました。

またある年、島先克臣先生の「キリスト教世界観セミナー」に出席する機会があり、そこでプラトンの二元論について教えられました。初めて聞かされた言葉でしたが、目が覚める思いでした。

このような歩みを通して、「神様は教会の事しか関心がない」かの如くに感じていたこれまでの観念的な信仰から、私は次第に解放され、この世での創造的な生き方に変えられて来ました。そのような時に手にしたのがポール・マーシャル著の『わが故郷、天にあらず』でした。そこには、変えられて来た私の思いがはっきりと言葉で表されていて、大きな励ましを受けました。

バイブル・アンド・アート・ミニストリーズやキリスト教世界観ネットワークなどの働きが益々祝されて、多くの悩めるクリスチャンの指針となっていかれますよう、心からお祈りいたします。

 2006年4月 アトリエ桂光燈 鈴木桂子

| | コメント (0)

« 2006年3月 | トップページ | 2006年6月 »