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2006年7月

第三章 『罪との闘い』(34-43頁)

                  小島 崇

《抜粋》

「人類史の非常に早い時期に、私たちは神のご計画をねじ曲げてしまった。神と共に歩み、世界の世話をする代わりに、アダムとエバは神に逆らったのだ。二人は神のようになりたいと願ったのではない。(彼らはすでに神に似ていたのだ。)そうではなくて、彼らは神になることを望み、そのために禁じられた木の実を食べた。その結果、人類と、人類に支配される全世界とは、悪、堕落、そして痛みを負うようになった。」(36)

「アダムとエバの罪の影響を受けたのは、カインとアベルだけではなかった。のろいの影響は二人の子孫、そして全人類にまでも及んでいった。罪とその影響は、人間の行動や考え、欲望、そしてこの世を世話するという神聖な務めを汚し、破壊してきた。人類の歴史は本来の道から逸れ、今に至っているのだ。」(39)

「罪はすべてをねじ曲げ、正しい道から逸らせ、堕落させる。だが、人間の歴史そのものが罪なのではない。罪は人間の歴史についた害虫である。出産が罪なのではなく、出産を苦痛にしたのが罪だ。男女が恋をするのが罪なのではなく、その関係を支配と疑いで満たしたのが罪だ。作曲することが罪なのではなく、音楽を虚栄と欲望で満たしたのが罪だ。町や塔を建設するのが罪なのではなく、それを高慢と力の象徴とするのが罪なのだ。人間が生き、人を愛し、音楽と芸術を楽しみ、働き、創作し、植えて刈り取り、遊んで踊るのが罪なのではない。それらすべてをむしばみ、正しいあり方から逸らせたのが罪なのだ。」(42)

《主ポイント要約》

この章の課題は2章で展開した、「創造において人間に与えられた『世界を治める責任』」がその後の「罪と堕落そして呪い」によってどのような影響を被ったのかを見定めることである。

著者はここでも神学的論議ではなく、聖書(創世記1-11章)の物語から直接「罪の広範な影響」と「世界を治める責任」との関係を跡付けようとする。(当然彼の神学的伝統を下敷きにしているのだが…。)

マーシャルの見方は、「罪の影響は広範で深いが、人間の文化活動を土台から無効にするほどの破壊ではない」、というものである。つまり罪の力は絶えず文化活動に取り付いて働きかけるが、文化活動自体が初めから罪に染まっているのではない、とすることである。そのようにして文化活動が罪のせいで無効にされ、切り捨てられることから守ろうとする。

このような「文化活動」と「罪」を共犯的に捉えて切り捨ててしまわないアプローチの基礎となるのは、「罪」と「人間性」の〝微妙な区別〟と言える。罪は「害虫」のようなものであり、「神の造られた良きものを食い物にする寄生虫」(42)、と捉えることにより、「人間性(家族、国家、政治・経済・文化)」に堕落後もなお「神の像」の創造的発現可能性を残すことができるからである。

(※〝微妙な区別〟の重要さは、一方で罪の原因を「悪の存在」と言う〝他者〟に一方的に還元せず、人間の自由意志と能力に深く、時に隠然と働く力として認めることで、逆説的に人間の尊厳性・応答責任性の非常に高い評価に繋がる点にも見られる。冒頭のアパルトハイトの神学的洞察はそのような「罪の複雑さ・微妙さ」の観方に基づいている。)

《インターアクション》

「使い捨て」か「リサイクル」か

私の趣味の一つは木工である。家具を作ったり外構・ガーデニング関係で棚を作ったりしている。家具は広葉樹を使うことが多い。材が固く木目が面白いということがある。しかし工作は面倒で時間がかかる。材の値段も高くなる。しかしそれだからこそこつこつ時間をかけて丹念に作り込んで行く楽しみがある。

最近デッキやプランターに値段の安い(SPFと呼ばれている)外材がよく用いられている。木ネジをガッ、ガッ、ガッと充電ドリルでぶち込んで「ハイ、出来上がり」の手軽さが支持されているようである。

(自分も含めて)人間と言うのは〝現金〟なもので、「壊れたらまた作ればいいや。どうせ安い材料使っているんだから。」となりやすい。一方で「木を大事に使い」ながら家具を作り、他方では安い外材を「手荒く」工作する矛盾を感じている。

「創造主の気持ち」を慮(おもんぱか)ることは恐れ多いが、お造りになられた世界がたまたま出来が悪ければ「じゃまた別のを作ろう。何しろ私は全能だから、エネルギーにも、アイデアにも、材料にもこと欠かない。いくらでもスクラップ&ビルド」ってことにはならないのだろうか。こだわりのラーメン店主のように「納得の行くスープができなければ、どんどん捨てて作り直す」ってことにはならないのだろうか。

マーシャルはその辺の所をノアの「箱舟神学」と「救命ボート(と言う比喩)神学」で対比させながら説いている。

「使い捨て」か「リサイクル」と言う対比は単純だが、創造主の被造世界に対する基本的態度を推し量る何がしかの示唆を持っているのではないか。果たして人間とこの世界は貴い広葉樹で丹念に作り込まれたものなのか、それとも安い材料で荒っぽくそそくさと作られたのか…。

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