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2006年8月

生活のすべてに

                                            東京基督教大学専任教員 岩田 三枝子

「キリスト教の霊性は、満たされた本物のキリスト者の存在となることを求めることであり、キリスト教の基本的な考え方と、キリスト教信仰の基礎と枠組みの中での人生のすべての経験とを統合させるものである。」(アリスター・マクグラス『キリスト教の霊性』教文館、32ページ)(下線は筆者による)

ある夏の昼下がり、玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けてみると、懐かしい顔がそこに立っていた。彼は神学校時代の同級生で、卒業して以来6年間、彼が東北で自転車を乗り回しながら牧会に励んでいることや、結婚したこと、その後、東海地方に移ったことなどをちらほらと聞いてはいたが、数回のメールのやり取り以外は一度も顔をあわせたことはなかった。この日の訪問は、「休暇で妻の実家に来ている。近くまで来たから、寄ってみた」、ということらしい。

早速お茶を飲みながら、互いの近況や神学校を卒業してからの経緯などを伝え合い、そして話は神学校時代の思い出に及んだ。あれやこれやと懐かしい授業の思い出話をしている中で、彼が「今、現場で牧会をしていて、神学校で学んだキリスト教世界観の大切さを痛感する」、と言い出した。「洗礼の学び会では、かならずキリスト教世界観について語っている」と言う。「学校の『キリスト教世界観』の科目は、18歳の大学1年生の子達が最初に受ける一番基本的な授業だけど、3年生、4年生になった子たちがもう一度クラスを履修しに戻ってくる奥の深い授業だった。僕も、神学校の3年生のときに大学生の中に混じって『キリスト教世界観』の授業を受け、やっと『わかった!!』という気持ちになった」らしい。確かに私たちが在学していた当時『キリスト教世界観』の授業が開講されていたが、この同級生がそれほどまでにこの授業に入れ込んでいるとは、在学当時は全く知らなかった。

この科目は当時の名物授業の一つであったが、担当されていた教授が退任され、その後しばらくは休講となり、3年前に私が科目の担当者となった。学識も経験も豊富な前教授と同じようには私にはできないことは当たり前だが、それでもキリスト教世界観の奥深さを学生たちに伝えたいと試行錯誤を繰り返しつつ3年が経った。自分では分かっているつもりでいても、言葉にして伝えることは難しい。私には納得のいく「わかりやすい」と思える枠組みであっても、学生にとっては「一貫性のないアプローチ」にしか映らないこともある。伝える内容もさることながら、伝え方の切り口の工夫も要求される。

何かヒントを得られないものかと思い、「あなたにとって『キリスト教世界観』って何?」と目の前にいるかつての同級生に聞いてみた。彼はすぐに答えた。「それは、人間が被造物であるということ。」授業の中での細かいエピソードなどを交えながら、印象に残っている内容を語った後、彼は続けた。「神様は創造者で、人間は被造物。あの授業で学んだことはこの一事に集約されている。」最後に彼はこう結んだ。「結局は、世界観が変わらなければ、何も変わらない。人間が被造物であるというこのキリスト教世界観は、伝道や教会活動だけではなく、生活のすべてに現れてくるものだから。」

彼の記憶に残っている、そして今も彼の牧会を支え続けている「キリスト教世界観」の切り口は私とは違っていたが、その結論は同じだった。「キリスト教世界観は生活のすべてに現れてくる。」

冒頭に挙げた引用は、英国の神学者アリスター・マクグラスの著書『キリスト教の霊性』の中で、キリスト教の霊性の定義としてマクグラスが掲げているものである。「キリスト教の基本的な考え方と、キリスト教信仰の基礎と枠組みの中での人生のすべての経験とを統合させるもの」というマクグラスの定義は、人生のすべての経験をキリスト教信仰に基づいて意味づけること、と言い換えることができるかもしれない。それは、「生活のすべてにキリスト教世界観が現れる」といった同級生の言葉に通ずるものがある。そして、マクグラスの定義を当てはめるならば、生活のすべてをキリスト教世界観によって生きることは、「キリスト教の霊性」そのものと言ってよいだろう。

この日の突然の来訪者は、懐かしさと喜びと励ましと、そして新しい課題とを私に運んできてくれた。夏休み明けから始まる今年度の「キリスト教世界観」の講義の中に、この日の同級生の言葉が生かされてくるかもしれない。

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第四章 『贖いと人の生き方』(44-58頁)

                  小島 崇

《抜粋》

「聖書というものは、罪がどのようにしてイエス・キリストによって克服されたか、今克服されているのか、将来克服されるのかを告げる書(ストーリー)だ。人類がどのように贖われて神との交わりに回復されたか、今されているか、将来されるのかを啓示した本(ストーリー)だ。地球を愛し、治め、世話をするために神が造られた被造物は必ず贖われる。贖いとは、連れ戻す、買い戻す、回復させるという意味で、聖書はこのメッセージを啓示するために与えられたのだ。」(47-48)

「私たちだけが自由にされるのではなく、被造物自体も自由にされる。神の贖いは、ご自身の造られたすべてのためだ、と歓喜のうちに語る。つまり、イエス・キリストによる人類の贖いは、世界を世話するという私たちの務めが新たにされることを通じて、被造世界全体が回復されることをも意味している。」(53)

「地上の生活は、イエス・キリストにある贖いによって終わったのでも、どうでもよくなったのでもない。逆にそれは新たにされ、本来のあり方に戻される。神のご計画の焦点は、それが教会堂の中であろうが外であろうが、私たちの日々の生活にある。祈り、計画、遊び、政治、その他あらゆる生活の場で、神の贖いの力を示すような生き方をしていこう。これは、簡単なことではないが、喜びに満ちた召しだ。」(57)

《主ポイント要約》

聖書によると「クリスチャンがこの世で生きる目的」が文化諸領域活動を含めた「地を治める」こと、創造における人と被造世界の関係性にあることを著者はここまで提示してきた。この理解をサポートする聖書箇所があちらこちらから文脈を離れて選択された上で提示されるのではなく、《創造》《罪・堕落》《贖い》と言う最も基本的聖書ストーリーの枠組みの中でこの理解を提示しようと著者は務めてきた。この4章のテーマである《贖い》はその基本枠からの根拠付け作業のまとめである。

著者は4章で、神の良き《創造》にもかかわらず、《罪・堕落》によって深く影響を受けた人間の「この世を治める責任」、そして被造世界は、その両方ともが神の《贖い》の対象となっていることがイエス・キリストの救済の意味を扱った新約聖書箇所から跡付けようとする。二章で「創造物語全体の構成から「人の創造」と『世を治める』役割が物語の根幹になっている」のを見たが、《贖い》においても(特に2番目の抜粋にあるローマ8:19-23に顕著であるように)この『世を治める』役割に焦点が向けられる。

これらのことから《贖い》は神の創造の目的全体を回復する働きであることが示唆される。贖いとは、人間(しかも魂と言ったような一部)だけで、被造世界が除外されるような救済計画(『救命ボート神学』)ではないことを著者は示そうとする。文化領域との積極的な取り組み、「この世で創造的に生きる」ことは、この〝包括的な〟救済観の上に根拠付けられる。

《インターアクション》

リック・ウォレンと言う人の『人生を導く5つの目的』(The Purpose Driven Life)と言う本が多くの人に読まれていると言う。大衆消費社会の大波に弄ばれ、エンターテイメント化した教会の中で「生きる目的」を見失っている〝クリスチャン〟が読者の中にかなりいるのではないかと想像される。同書は〝伝統的〟なキリスト教に立脚しながら(クリスチャン)読者に〝コミットメント〟を迫る。〝人生の意味〟は教会に通い、牧師の良い説教を聴いたり、良い宗教音楽を聴いたり、と言ったような消費者的、受身的な態度で手に入れられるものではない。自ら「人生の最終目標」を見定め、それに合わせて必要なものを選択し、人生を組み直さなければならない、と主張しているように読める。

現代福音派クリスチャンに対する提案として、マーシャルの本とウォレンの本には興味深い並行があることを、たまたまこの二つの本を読んだ人は感じられたのではないかと思う。聖書をベースにして「人生論(人が生きる目的)」が展開されるという点で両者は同じ基盤を持つ。しかし《創造》《罪・堕落》《贖い》と言う同じ聖書の基本ストーリーをベースにしながら、両者はかなり対照的な「この世に対する」取り組み方を導き出す。そのような理解の〝開き〟が出てくるのはなぜか。やはり《贖い》をどう理解するか、《贖い》の対象とその終末的展望理解にかかっていると思われる。(ご参考までに、ウォレンの本から少々長い抜粋を以下に掲げる。)

「神はあなたの人生に目的を持っておられますが、それはこの地上で終わるものではありません。神のご計画は、あなたがこの地球という惑星で過ごす数十年を遥かに超えたものです。…あなたが母親の胎内で過ごした九ヶ月が、この地上における人生への準備期間であったように、この地上における人生は次の生に向けた準備期間と言うことができます。もしあなたがイエス・キリストを通して神との関係を持っておられるなら、死を恐れる必要はありません。死は永遠の世界を開く扉だからです。…聖書は言っています。『この世は私たちの住む所ではありません。私たちは天にある永遠の住まいを待ち望んでいるのです。』永遠と比べる時、この地上で私たちが過ごす時間などは、ほんの一瞬の出来事に過ぎません。しかし、この地上でどんな結末を迎えるかが永遠の運命を決めることになります。この地上でどのように生きたかによって、死後の運命が決まってくるのです。覚えておかなければならないのは次のことです。『私たちがこの地上の体をまとっている間は、主イエスと共に過ごす天にある永遠の住まいからは離れているのだということです。』」(リック・ウォレン『人生を導く5つの目的~自分らしく生きるための40章』、51-52ページ)

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