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生活のすべてに

                                            東京基督教大学専任教員 岩田 三枝子

「キリスト教の霊性は、満たされた本物のキリスト者の存在となることを求めることであり、キリスト教の基本的な考え方と、キリスト教信仰の基礎と枠組みの中での人生のすべての経験とを統合させるものである。」(アリスター・マクグラス『キリスト教の霊性』教文館、32ページ)(下線は筆者による)

ある夏の昼下がり、玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けてみると、懐かしい顔がそこに立っていた。彼は神学校時代の同級生で、卒業して以来6年間、彼が東北で自転車を乗り回しながら牧会に励んでいることや、結婚したこと、その後、東海地方に移ったことなどをちらほらと聞いてはいたが、数回のメールのやり取り以外は一度も顔をあわせたことはなかった。この日の訪問は、「休暇で妻の実家に来ている。近くまで来たから、寄ってみた」、ということらしい。

早速お茶を飲みながら、互いの近況や神学校を卒業してからの経緯などを伝え合い、そして話は神学校時代の思い出に及んだ。あれやこれやと懐かしい授業の思い出話をしている中で、彼が「今、現場で牧会をしていて、神学校で学んだキリスト教世界観の大切さを痛感する」、と言い出した。「洗礼の学び会では、かならずキリスト教世界観について語っている」と言う。「学校の『キリスト教世界観』の科目は、18歳の大学1年生の子達が最初に受ける一番基本的な授業だけど、3年生、4年生になった子たちがもう一度クラスを履修しに戻ってくる奥の深い授業だった。僕も、神学校の3年生のときに大学生の中に混じって『キリスト教世界観』の授業を受け、やっと『わかった!!』という気持ちになった」らしい。確かに私たちが在学していた当時『キリスト教世界観』の授業が開講されていたが、この同級生がそれほどまでにこの授業に入れ込んでいるとは、在学当時は全く知らなかった。

この科目は当時の名物授業の一つであったが、担当されていた教授が退任され、その後しばらくは休講となり、3年前に私が科目の担当者となった。学識も経験も豊富な前教授と同じようには私にはできないことは当たり前だが、それでもキリスト教世界観の奥深さを学生たちに伝えたいと試行錯誤を繰り返しつつ3年が経った。自分では分かっているつもりでいても、言葉にして伝えることは難しい。私には納得のいく「わかりやすい」と思える枠組みであっても、学生にとっては「一貫性のないアプローチ」にしか映らないこともある。伝える内容もさることながら、伝え方の切り口の工夫も要求される。

何かヒントを得られないものかと思い、「あなたにとって『キリスト教世界観』って何?」と目の前にいるかつての同級生に聞いてみた。彼はすぐに答えた。「それは、人間が被造物であるということ。」授業の中での細かいエピソードなどを交えながら、印象に残っている内容を語った後、彼は続けた。「神様は創造者で、人間は被造物。あの授業で学んだことはこの一事に集約されている。」最後に彼はこう結んだ。「結局は、世界観が変わらなければ、何も変わらない。人間が被造物であるというこのキリスト教世界観は、伝道や教会活動だけではなく、生活のすべてに現れてくるものだから。」

彼の記憶に残っている、そして今も彼の牧会を支え続けている「キリスト教世界観」の切り口は私とは違っていたが、その結論は同じだった。「キリスト教世界観は生活のすべてに現れてくる。」

冒頭に挙げた引用は、英国の神学者アリスター・マクグラスの著書『キリスト教の霊性』の中で、キリスト教の霊性の定義としてマクグラスが掲げているものである。「キリスト教の基本的な考え方と、キリスト教信仰の基礎と枠組みの中での人生のすべての経験とを統合させるもの」というマクグラスの定義は、人生のすべての経験をキリスト教信仰に基づいて意味づけること、と言い換えることができるかもしれない。それは、「生活のすべてにキリスト教世界観が現れる」といった同級生の言葉に通ずるものがある。そして、マクグラスの定義を当てはめるならば、生活のすべてをキリスト教世界観によって生きることは、「キリスト教の霊性」そのものと言ってよいだろう。

この日の突然の来訪者は、懐かしさと喜びと励ましと、そして新しい課題とを私に運んできてくれた。夏休み明けから始まる今年度の「キリスト教世界観」の講義の中に、この日の同級生の言葉が生かされてくるかもしれない。

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コメント

キリスト教世界観をはじめて聞いたときの事を思い出しながら、読ませていただきました。島先さんから礼拝のお話を含めて5回のお話を聞き、聖書をアダム、ノア、アブラハム、そしてモーセと説き進められ、生活の全域にわたって、神様が支配されることを学びました。そして、わたしたちの永遠の生活は霊として天ではなくて、この地上で生きるのだ、ということを聞きました。この教えは、自分の二元論的な考え方(霊と肉の区別をしすぎる、霊の世界で永遠に生きるという思い込み)などの間違いを正されました。そして、文字通り地に足のついたクリスチャンの歩みを教えられて、自分のクリスチャン生活がコペルニクス的(古い!!)転換を経験した喜びをもう一度思い起こしながら、読ませていただきました。
 ただ、最近考えさせられ、クリスチャンの仲間と話し合っていることですが、すべての生活の領域にかかわる神様の働き、それにふさわしい生き方、ということをもっと分かりやすく話すことはできないのかなあと思わされています。まず、隣のクリスチャンのおじいさん、おばあさんにも分かるように、また、教会学校のまあ、6年生くらいの子どもにも分かるように話すことはできないだろうかと。
 とにかく、キリスト教の話は難しいのが宣教の大きな妨げになっているという気がします。まわりの人々(クリスチャンではない人々も含めて)が話しておられる言葉で聖書の教えを伝えることをつとめたいと思います。

投稿: 花薗 征夫 | 2006/08/24 12:20

花園さん 
 コメントありがとうございます。私も何とか分かりやすくと努力してきていますが、なかなか難しいですね。多分回心が求められている大きなことだからではないかと考えています。
 これからも言葉で分かりやすく説明する努力を続けていくつもりですが、最近は、毎日の生活の中での自分の生き方に焦点をあてています。これはもっと難しい!!

投稿: 島先 | 2006/08/29 12:34

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