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第五章 『学ぶ素晴らしさ』(60-79)

                  小島 崇

《抜粋》

「神の目的と私たちへの召しは、絶えず前進している。新しい疑問、新しい問題、新しいチャレンジ、新しい希望が生まれてくる。私たちは成長し、疑問を持ち、知識と知恵を深めていくようにと召されていて、そのためには自分が変わることを求められる。どんな変化でもよいというのではなく、神の御旨に沿った変化である。聖書の中で、神は人間の根本的な現実を明らかにし、行くべき方向を示された。しかし聖書それ自体は、私たちが知るべきすべてを教えていないし、そのために書かれたのでもない。むしろ、それらを教えてはくれない、と言うことを教えているのである。私たちは聖書の光に照らされて、世界そのものを調べ、理解しようとする。この学習は終わることのない冒険だ。その方向も終着点も想像もできないような冒険なのだ。」(強調筆者、62-3)

「人間であること、すなわち神の像に造られたことの本質は、地球に対する責任が与えられているという点だ。そして、答えが明瞭でなかったり、法律や決まりでは判断がつかなかったりするときに、責任者としての判断が求められる。つまり、世界を世話し正義をもたらすという骨組みにどのような肉付けをしていくかという判断は、私たちに委ねられているのだ。」(68)

「聖書は、あらゆる人間の知識が敬神的におさめられた、霊感を受けた『大百科辞典』のようなものではない。すべてを教えるためではなく、すべての土台を示すために与えられているのだ。」(77)

《主ポイント要約》

ここまで著者は「地を治める」と言う、クリスチャンがこの世に積極的に従事する時の土台となる考え方を聖書から提示した。それに対し5章以降は従事すべき各文化領域(政治・文化・仕事、等々)を一つ一つ取り上げる各論のような構成になっている。その最初に取り上げられるのが「学ぶ」と言うことである。

学ぶと言うことが神の像として造られた人間の本性(政治性、文化創造性)の発揮に不可欠なものであることを明らかにしながら、この章が特に問題にしているのは、クリスチャンにとって「権威の書」である聖書の位置づけの問題である。聖書は何であって何でないか、聖書の中に間違って答えを見つけようとしていないか、陥りやすい誤解を例証しながら聖書の役割を明らかにしていく。聖書と言う「本」の性格を正しく認識し、それに基づいて聖書を適用することの必要性を著者は力説する。

聖書の啓示の性格をどう考えるべきか、一番目と三番目の抜粋がそれを簡潔に述べている。『人間の根本的な現実』『人間の行くべき方向』『すべての土台』と言った表現に示されるように、一般原則のような性格が念頭に置かれている(例えば旧約聖書の『十戒』、73)。だからと言って聖書は「マニュアル」のような指示やルールの体系ではない。「ダンス(71)」や「バスケットボール(76)」の例で説明しているように、人間の文化創造がもたらす、オープンエンドで発展的に生起してくる『具体的状況』に対し、絶えず新しく考え、判断していくためのガイドラインのようなものとして位置づけられている。

《インターアクション》

著者はこの章の中で、自身がクリスチャンとなった後、自分の学問的専門をどのように選んだらよいのか迷った次第を述懐している。(69-71)
私にとって「クリスチャン」と言うことと「学ぶ」と言うことの関連で一番悩んだ問題は「世俗の学問を深く学んで行くと信仰と対立してしまうのではないか」と言うものであった。

牧師になるための神学校での学びから、「宗教社会学」を少し専門に学ぶ段階に入った頃のことであった。社会学の古典と言われるマルクス、デュルケーム、ヴェーバーの著作を読みつつ考えるようになった問題は、これらの「キリスト教信仰」を土台にしていない、いわゆる世俗の学問の前提となっている哲学・価値観にどう対処したら良いのだろうか、と言う問いであった。方法論とか、視点とか、社会学を通して得られる知識や考え方、それらをただ単にキリスト教の宣教の手段として導入するだけでいいのか。(いわゆる「クリスチャン」を冠した人文科学のようなもの)それとも社会学なら社会学をキリスト教にどう結びつくか脇に置き、とにかく深く掘って行ってその深いところから出てきたものを身につけるのか。どちらのアプローチがいいのだろう・・・。

性格的に前者のようなものは肌に合わないので、後者のアプローチしか考えていなかった。それで生じてきたのが「(社会)科学と信仰」の問題。どこかで対立して自分の中で統合できなくなってしまわないだろうか、という怖れを覚え立ち止ってしまった時があった。

悩みの中身はとてもここで紹介できないが、とにかくこのような(葛藤)経験を通して、自分なりに「世界に対して開かれた態度」が身についてきたのではないかと思う。一章の《インターアクション》で紹介したが、保守的な信仰背景の学校から次第にリベラルな信仰背景の学校へと移るに従い、〝外の世界〟に対する恐れ(その影響下に入ってしまい自分の信仰が変えられてしまうのではないか、と言ったような)と向き合いながら「学ぶ」と言うことの基本的リスクである「自分を変える」ことを受容できるようになってきたのでは、と思っている。

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