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第六章 『仕事とは』(80-98)

                                                小嶋 崇

《抜粋》

「仕事は神の賜物だ。だが、この罪の世界ではとてもそのように見えないことも事実だ。ある人々は、この賜物を少しでも高く売ろうとして、その尊厳を卑しめてしまっている。他の人は、貧乏のどん底で、休む暇もなく働かざるをえない。仕事は、骨が折れ、苦痛が伴い、つまらなく、意味がないものにもなる。これは神が意図されたことではない。だからと言って拒んだり、軽蔑したりしても問題の解決にはならない。真の解決は、キリストにある新しい被造物とされた私たちがまず、罪のゆえに歪められてしまった仕事を贖い、回復し、神がもともと意図されたあり方に戻すために生き始めることなのだ。」(88-9)

「仕事を贖い、回復するには、それが天職であるという感覚をいつも新鮮に持ち続けることと、自らがしもべであることを心から喜ぼうとする姿勢が必要だ。私たちの仕事は、他の人々の役に立ち、人や自然界の必要に応えるものなのだ。」(93-4)

「聖書によれば、仕事というのは神に対する責任だ。だから、私たちの奉仕と召しを本当に表現するものとなるよう、できるだけ仕事のあり方を変えていかなければならない。仕事場や組織の構造を改革することによって、人々が責任を正しく果たせるように、また神の像を担う存在として取り扱われるようにする必要がある。つまり「人間は『労働』市場で売買できる単なる商品だ」という考え方から方向転換して、良い仕事、役に立つ仕事に取り組まなければならない。仕事というものが、責任ある行為、隣人と神へ仕える純粋な奉仕となるように、可能な限り、互いに助け合いつつ目指していくのだ。」(95)

《主ポイント要約》

「クリスチャンがこの世で積極的に生きる」と言う時「仕事」はどういう位置づけになるのか。著者は単なる「キリスト教的職業観」ではなく既に1~4章で展開された土台に沿って「仕事を贖い、回復する」にはどうするか、と言う視点で論を進めている。

著者は先ず聖書が様々な形で「仕事」や「労働」に言及することに目を向けさせる(82-85)。そこから自ずと「仕事」がそして「この世」が神の目から見て崇高なものであり、これに積極的に関わることが神の御心であることを示唆する。さらに著者は教会史からも積極的な労働観を例証する(85-88)。

「仕事を贖い回復する」聖書的・キリスト教的アプローチとして著者は三つの留意点を指摘する(89-90)。全ての職業が神の賜物・召しであること。仕事それ自体に(人がそれを通して成長し満足を得ると言う)内在的価値があること。そして、仕事は神の像として創造された人間の具現化であること。

このような視点を組み合わせて著者は社会における労働の価値を回復し、仕事の実践が相互奉仕になって共同体を形成していくことに「仕事を贖い、回復する」方向性を見ている。

《インターアクション》

トーテムポール作りのジムの話が印象的である。ジムにはお金のために作るのではないと言う自負があった。法外な値段を吹っかけて断ろうとしたが、相手は自分の予想をはるかに超えた潤沢な資本を持つ企業であった。彼は意に反して仕事を引き請けざるを得なくなる。彼の心には「何かを裏切ったような後悔」が残った(93)。

伝統文化を保存する崇高な仕事であるトーテムポール作りをその意義を知らず理解しようともしない巨大エンターテイメント事業のホテルの飾りのために作らざるを得なくなってしまったジム。お金に糸目をつけず欲しいものを手に入れようとする事業家。伝統的な枠組みの中で自分の天職を活かそうと思っても、自分の知らないところで市場経済は勝手に自分の仕事の価値や意味を決定する。伝統的社会に生きる人間が巨大資本が支配する市場経済に飲み込まれてしまう一つの縮図を見るようである。

このジムのエピソードは、「お金で買えない仕事」と言う小見出しとは裏腹にマーシャル自身が描いている「仕事を贖い回復する」シナリオの困難さを浮き彫りにしているように思う。

困難さの一つはマーシャルの思い描く個々人が仕事に尊厳を持ちしかもその仕事を通して有機的に社会が形成されるような社会モデルが、多分に中世から前近代の社会のイメージを色濃く投影している(ように見える)ことにある。ルターやピューリタン的な「天職観」が通用した(人は一生涯同じ仕事に従事するような)伝統的社会は、資本が自由に市場を行き来する社会にとって変わって久しい。さらに現在のような、市場経済がグローバル化し、企業も多国籍化し、産業構造変化に合わせリストラや大量短期雇用で生き残りを図るような時代である。仕事の尊厳を守りかつ社会的に有用であることを両立させるには伝統的な「天職観」とは異なるモデルを必要としているように思う。

もう一つの困難さは、例えば日本社会を念頭に言えば、「天職観」や「奉仕の精神」を発揮する前に、「仕事場や組織の構造を改革することによって、人々が責任を正しく果たせるよう」にする問題がより大きいように思う。いわゆる既得権益志向や利権体質が官庁のみならず広く「企業文化」「ビジネス文化」として浸透しているように思う。改革の困難さを先ず思ってしまう。

と、少々否定的ニュアンスのコメントになってしまったが、マーシャルが主張するように「仕事・労働」に関する新しい道徳的基盤が必要とされていることは間違いない。そしてその新しい精神的インフラが胚胎するよう期待されているのが世界観的なヴィジョンを持つ宗教であることも事実だろう。

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