« 第五章 『学ぶ素晴らしさ』(60-79) | トップページ | 第六章 『仕事とは』(80-98) »

新しい歌を歌え

                                                                               渡辺晋哉
■土の器

「十字架を信じて救われれば、不思議な力が与えられて伝道できる。私の話を聞いた人は、どんどんクリスチャンになる」と、11歳で受洗した私は、本気で考えていたような気がする。しかし実際にはこれまでのところ、いわゆる伝道する賜物は与えられなかった。

聖霊の与える賜物は様々で、私にはそのほかに良いものが与えられていると、今でこそ感謝できるが、このことを挫折と感じてしまう時期が長かった。そして伝えても相手が信じてくれないのは、ひょっとして自分が救われていないからか?とまで恐れ、それを打ち消すように、伝道したいふりを一生懸命していた。人に対しても、自分にも、神様にさえ。

賛美についても同様だった。私は美術・描くこと、作ることが好きだ。み名をあがめる為に与えられたものだと確かに思う。歌うことも大好きだが、初見で正確に歌うとか、編曲や作曲をするとほどの才能は無い。努力して身につく部分には限界がある。そこで職業を考える際、音楽でフルタイム献身する道はあるのに、私には出来ないと解っていた。一方、自分の知りうる範囲で、日本の教会で教会音楽は認められている。音楽は賛美に用いられ、賛美は伝道に有効。だから音楽は芸術として価値がある。美術には作品のすべてを神様にささげる道がないと、思い込んでいた。

自分自身を裁く声が止まらなかった。「大教会なら音楽主事の仕事はある。でも美術はなあ。」「子供向けの聖書絵本や挿絵でも描くの?それとも宗教画?どのみち現代の教会では需要がないから、片手間仕事の献身になるね。」「それよりいっそ、伝道者への導きをもう一度祈ってみたら?」堂々巡りの敗北感を味わっていた。「ああ神様、伝道者になれないなら、せめて美術ではなく、もっと音楽の才能を下さればよかったのに」

土の器が陶器師に作られた目的について文句を言っていたわけだ。

■種

み言葉とは確かに種のようなもので、心の中で時間とともに成長し、その姿が変わる。自分にとっての意味が育つ。
 「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
                                                            -イザヤ40:8-
このみ言葉に出会ったころは、この世の移ろい行く美、草や花は、やがて滅びるのだ。意味が無い。それより永遠の価値があるみ言葉に仕える者になりたい。そうできない自分は価値の低い人間だ。そう思っていた。

しかし、このみ言葉の表現・神様の語り方を見る時に気づいたのだ。神様がご自身の永遠性を語るのに、有限の被造物である草や花を用いておられることに。今ある草が美しく精一杯生きる、そのこと自体を主はご栄光のために用いてくださったのだ。主は被造物の限られた今の姿を、ご自身の永遠性の中に、組みこんでくださることが出来るのだと。やがて枯れるにしても、神様のお取り扱いによって、被造物の存在すべてに永遠の意味が与えられることを。

それから、聖書全体に脈々と流れる神様の意志を読みとりたいと、み言葉を開くと、神様は人間が罪ある存在になった後も、創造の目的を諦めておられないことが解ってきた。神様がこの世界を「良し」とされた宣言は、堕罪によって撤回されていない。だからこそ、交わりの神様は、創造の目的に人間を参加させ続けるために、原福音の段階からすぐに罪の贖いを定め、それは十字架の贖罪によって完成される。

惨めな敗北から救われた。私は死んでから天国に行くために、仕方なく現世を生きるのではなく、神様の目的の為に、主のご支配のために、今を生きることが出来るのだとわかった。生涯のすべてに永遠を望みうることを知った。

自分のことを否定していると思い込んでいたイザヤ書のこのみ言葉が、神様の永遠性の中に自分の存在を重ね合わせる鍵のみ言葉だったのだ。

■「見よ、すべては新しくなりました。」

そう思って自分を見つめなおすと、なんと可能性に満ちた希望の生涯だろう。私の手で、目で、声で、家庭で、作品で、仕事で賛美できる。与えられた賜物で、神様の創造の目的に参加できる。贖罪に信頼すれば、罪の呵責に縛られずに献身できる。喜びと畏敬の念で世界を見れば、自然は現に神様を賛美し、創造の世界に生きている。

同時に、なんと広く贖いの必要な世界かに思い至った。十字架の福音によって、私達はあらゆる分野に光を投げかけなければならない。み心に叶わない世界で生きなければならないと、嘆いている場合ではない。私が遣わされた持ち場に、「見よ、神の国は近づいた」と喜びの訪れを携えていこう。

詩篇の「新しい歌を主に歌え。-詩篇96:1」の一節は、私にとってずっと魅力的なみ言葉だった。しかしようやく、何が新しい歌なのかが見えてきたように思う。それは、十字架によって再創造された私達の、新しい魂による歌だ。新しい魂で創造の目的に参加する道のことだ。贖われていない古い肉による歌を歌っていてはならない。贖われたのに歌わないでいてはならない。どんな歌になるかは人ぞれぞれ創造の目的(賜物)により、広く、そして深い可能性に満ちている。さらに、主との交わり、人との交わりによって高められる。

生涯を通して、私の新しい歌を、喜びの心をこめて歌っていきたい。私の、今あるこのところから。


———————————
筆者渡辺は自由学園明日館での公開講座の企画運営をしています。10月からの06年度後期講座では日本同盟基督教団多磨教会牧師 広瀬薫先生による聖書の世界観についての学び「聖書の世界観、実践の生涯−喜びを持って働きかける」を開講します。そのほか、
  「ダ・ヴィンチの謎に迫る−聖書の回答」
  「知って味わう賛美歌の魅力」
  「西洋絵画を味わう−イタリアの都市を巡る美術散歩」
  「家族学−大切な家庭を大切にするために」
などのキリスト教関連の講座、建築・デザイン、芸術・文化、教養、健康・生活、趣味・実用の6ジャンル29講座を設けています。どなたでもご参加いただけます。詳しくは公式ホームページhttp://www.jiyu.jp/にて。

コメント

コメントを書く