« 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »

2006年11月

第七章 『なぜ休めないのか』(99-113)

                      小嶋 崇
《抜粋》

「彼らの仕事には、様々な大義名分がある。教会では『主のため』とか『奉仕』といった大義名分があって、牧師たちはたいてい最悪の仕事中毒にかかっている。しかし、仕事の内容がなんであれ、仕事中毒は一種の偶像礼拝で、その犠牲者は、他の人との健全で親しい人間関係を楽しめなくなっている。さらに悲劇的なのは、神との交わりからも遠ざかってしまうことだ。」(106)

「現代の産業社会には、仕事から逃れたいという駆り立てるような思いが見られるが、それはこの聖書的な休息とは対照的だ。私たちは、様々な種類の気晴らしとレジャーを大量生産し、週末のために生き、休暇を指折り数えながら暮らしている。この背後には、仕事というものを無視し、否定する思いがあり、それゆえ実際には、かえって仕事に支配されている。私たちのレジャーの最たるものは消費だ。ステキな『ライフスタイル』を作り出すため、私たちはモノを買う。そのために、ますます忙しく働く。」(110-111)

「休もうとするとき、私たちは自分の無力さを認めなければならない。休みとは、しばらくの間、世界を先に進むままにしておくこと。真の休息は、神も私たちの兄弟姉妹も、私なしでもやっていけると認めること。休息は自分の計画ではなく、神の方法に委ねること。それは祝いのひと時で、祝福が神の御手だけから来ることを知ること。それゆえ、休むには信仰が必要で、だからこそ、救いが休息として描かれているのだ。私たちが本当の意味で休むとき、神の恵みを受け入れることになる。努力して得た恵みではなく、それは受け取るものだ。自分を義とするのではなく、義とされるのだ。」(111-112)

《主ポイント要約》


六章で「仕事」を神からの召しとして積極的な位置付けを試みた著者は、この章において「仕事」の対極である「休息」も同様に召しであることを論述する。

現代社会においてややもすると消極的な「労働観」が支配的なのに対し、依然として高い「職業倫理」を保持するキリスト者は、それ故に「働き過ぎ」に陥りやすい。仕事を「天職」と捉えるキリスト教的な見方の副産物として「休めない」という性癖が出てくる。そこに「休息」を「仕事」と同等の(あるいはより基本的な)召しとして捉える必要が出てくる。

キリスト教的観点から見た「休息」の問題とは、「主のため」とか「奉仕」を大義名分にした「行いによる義」、あるいは「偶像礼拝」の問題である、と著者は指摘する。人間の神に対する基本的あり方は、まず神を信頼し、神の恵みに依存すること。この基本姿勢からずれると、礼拝や休息を後回しにし、「神への奉仕」に名を借りた「行いによる義」、「偶像礼拝」に陥いってしまう。

著者は「休めない問題」を教会文化の中だけでなく、広く一般社会の問題としても視野に入れようとしている。現代人の休日の使い方、レジャーの仕方は、「労働」の軽視・逃避の裏返しである。「休息」、つまり「再創造(re-creation)」のはずが、かえって「レジャーのための時間的余裕や資金を生むための労働」と言う位置付けに転換してしまい、逆に仕事に縛られていると分析する。真の休息からは程遠い現代人のレジャーは、休日のショッピングや行楽を通して「消費経済」に組み込まれてしまっている、とも分析している。

《インターアクション》


この章は「働き過ぎ」「仕事中毒」と言う一種の(経済)先進国文明病のようなものにメスを入れる「文明批判」の趣きがある。「働き過ぎ」と言えば、欧米に限らず日本の「会社人間」に代表される傾向とも重なる。しかしこの「働き過ぎ」、よく言えば「勤勉」だが、近代社会発展を支えたエートス(倫理)は彼我に文化的背景の相違があるように思う。

著者は「行いによる義」と「偶像崇拝」と言う神学的視点から「働き過ぎ」の問題を分析しているが、クリスチャン読者には確かに説得力がある。かく言う私は恥ずかしながら「仕事中毒」とは程遠いぐーたら牧師の身なのであまり大きいことは言えないが、カルヴィニストの「召命観」と「罪悪感」の絡み(100)みたいなものは分かるつもりだ。日本の「会社人間」はと言うと、これも実際経験がないに等しいので想像の域を出ないが、会社と言う組織への忠誠がエートスになっているのだと思う。つまり欧米キリスト教文化においては「職業」を通しての神への奉仕がベースになっているが、日本文化においては自分の属する組織への忠誠が「働き過ぎ」の背景になっている、と言えるのではないか。

この単純な文化比較によって指摘しようとしたのは、欧米キリスト教文化を背景にしている(働き過ぎと言う)事象を、主に「教会文化」の問題として扱う時と、より広く(欧米)一般社会の問題として扱う時とでは整理して扱う注意が必要ではないか、という点だ。

6章の「仕事」から7章「休息」そして8章「遊び」とマーシャルは(当然のことながら)主に神学的、キリスト教的に取り扱うのだが、時にグローバル化した市場経済における「労働」の意味(トーテムポール作りのジム)や、脱産業社会段階での「消費されるレジャー」のような問題にも言及する。しかし「働き過ぎ」問題の背景となる、数百年かかって形成されてきた「経済社会」とその内部で起こった変化(広い意味での世俗化)を視野に入れた上で扱かわないと、(特に非クリスチャン読者に対し)十分説得的な論述にならないように思う。

と、指摘して見たものの実際にそのような論述をしようとすればかなり複雑になり読者には余りありがたくない、ということになってしまうだろう。そこで読者の中で何かこれだけでは簡単過ぎるのではないか、もっと事情を掴みたい、と言う様な興味を持った方に、特にこの6章から8章を読む時のバック・グラウンド・リーディングとしてお勧めするのが、マックス・ヴェーバーの『プロテスタント倫理と資本主義の精神』だ。彼は近代経済社会発展の分析視角にピューリタンたちの「召命(calling, vocation)」を用いた。しかし、この論文の最後の方で用いている『鉄の檻』の描写で有名だが、ヴェーバーの(著作時点、20世紀初め頃の)文明批判は「資本主義社会が今やピューリタンたちの宗教倫理的な基盤という精神部分の抜け落ちた、経済合理主義だけの檻のようになっている」、という点にあった。つまり近代ヨーロッパ社会が世俗化し、「天職観」と言う「労働」の意味づけ、動機付けを喪失した時代を生きているのだ、と分析したのである。

恐らくヴェーバーの描写する姿が現代社会の大勢であり、マーシャルが印象深く描写する魚屋さん(80)やカルヴィニスト(100)の存在がマイノリティーなのだと思う。「働き過ぎ」問題は、「天職観」の陥穽の問題としてだけでなく、「労働」の合理化による「意味喪失」問題や、消費経済におけるレジャーの質の問題など、経済社会全体の問題としてアプローチする必要があるのではないか。

| | コメント (0)

« 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »