« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »

2006年12月

第八章 『遊びの精神』(114-132)

                  小嶋 崇

《抜粋》

「遊びは、クリスチャンにとって最も崇高な召しの一つだ。私たちの生活の多くの時間は、何かを生産したり変えたりすることに使われているが、遊びはそうではない。単純にこの世界でくつろぎ、神との平和を楽しんでいるのだ。」(117)

「なんとおとなげない、無駄で役に立たない、と思われるだろうか? 確かにある種の遊びはあまりにも高くつくので、考えなければならない。だが、遊び自体は素晴らしく、正当で、敬虔な仕事だ。なぜ敬虔なのか?それは役に立たないからだ。遊びは本来役に立たないものなのだ。
では、『役に立たない』というのは、どういう意味なのだろう。それは、『役に立つ』とは何かを考えると分かってくる。役に立つというのは、何かを成し遂げて、他の何かの益になるということだ。役に立つものや、役に立つ活動や練習というのは、目標がそのもの以外にある。
もしお金を稼ぐために働くとしたら、私たちは働くために働いているのではない。金銭と言う目的のために働く。私たちが金銭を必要とするのは、自分や家族の必要のため、教会を支えるため、隣人を助けるためだ。私たちが働くのは、他の人々に仕えるためだ。つまり、他の人の車を直し、他の人の家を建て、他の人を教え、他の人を法廷で弁護する。働くことは素晴らしいことで、しなければならないし、できるかぎり楽しみたい。しかし仕事は、仕事以外の何かのための行為である。」(122-3)

「何か別の目的のためにすることは、実際多くあって、それは正しく良いことである。おそらく、私たちが日々していることのほとんどが、何か別のためなのだと思う。だが考えてみよう。もしすべてのことが何か他のことのためであったら、つまり、あらゆることが何か別の目的のための手段であるなら、どこに終着点があるのだろう? もし、何にも、それ自体になす価値がないのなら、いったい全体、生きる真の意味はどこにあるのか? もし、あらゆることが他の何かのために役に立つことなら、役に立つことの最終目的はどこにあるのだろう?
『役に立たない』こと、つまり、それ自体のためになされることが非常に大切で、死活問題とも言える理由がここにある。『役に立たないこと』こそが、人生の最終目的なのだ。もちろん、それは遊びだけではない。私たちが礼拝するのに、礼拝以外の隠れた目的はない。家族や友達と楽しく時を過ごすのは、それ自体が楽しいからだ。夕日を見つめるのは、それが何か別の目標達成に役立つからではない。私たちが遊ぶのも、それが本当の遊びなら、ただひたすら遊びたいからなのだ。」(126-7)

《主ポイント要約》

キリスト者が「この世」に積極的に関わっていくための考え方の土台を聖書、特に創世記の「神の像に、この世を治めるために、造られた」と言う人間観から導き出している著者は、その「召命」の具体的形を「学ぶ」(5章)ことと「仕事」(6章)から既に導き出した。

筆者は既に前章の《インターアクション》でこれらの「召命」は宗教改革後の西洋キリスト教社会においては広く行き渡った、その意味で宗教改革を経た「西洋キリスト教文化」の伝統であることを説明しようとした。問題はこのような文化的伝統のもとに発生する文明的課題が「休息」(7章)であり、「遊び」(8章)であることをまず指摘しておいた上で《主ポイント》を解説するのが良いのではないかと思う。

著者は「休息」(7章)も、そして「遊び」(8章)さえも「神の召し」であると主張する。しかし指摘したように「学ぶ」や「仕事」のような、より〝生産的〟〝達成的〟召命に対し、「休息」や「遊び」のような〝非生産的〟〝非達成的〟なことを同等に「召命」として主張することはピューリタン的な召命観(世俗内労働が神と人への奉仕)を背景にしたキリスト者には困難であることを感じている。彼らのようなキリスト者には「休息」や「遊び」がどうしても否定的なものに映るからである。それでこの章のように「遊び」を正面から取り上げることは少し突飛で、ふざけた印象を与えるかもしれないことを著者は自覚している。しかし彼は極めて真面目にこの主題を扱いたいのである。(「遊びの精神」には少し反するかもしれないが…。)なぜなら「遊び」の様態ではなくその精神部分が、著者が考える、人生の「死活問題」、「人生の最終目的」に関わるからである。「遊び」の精神部分こそが、「肉体に造られ」「神の良き被造世界」の中で生きるよう創造された人間の本懐に触れるからである。

著者はかなり回りくどい説明と論理を用いて「遊び」の精神部分に到達しようとする。(上記抜粋はそのため少し長めに引用した。)そして「遊び」を「そのこと自体のためになされること」、別の角度から言えば「役に立たないこと」として定義づける。この「役に立たない」と言う点へのこだわりが、著者がこの章で言わんとしていることをよく示していると思う。著者は「遊び」「休息」を「仕事」と対比させて語りながら、近代西欧において負と見られてきた前者が、豊かな人生のためには後者と同様、あるいはそれ以上に、必要不可欠であることを指摘しようとしている。人生の幅、奥行き、深い味わいを与えるのは、実は「単純にこの世界でくつろぎ、神との平和を楽しむ」行為なのだ、と。そしてこのことは霊肉二元論のメガネで世界を見る者、「天(来世)を故郷」にするキリスト者にとって極めて受容困難なことなのである。

《インターアクション》

敢えてマックス・ヴェーバーを引用せずに宗教改革以後の西洋近代社会における「労働(経済)」とそこからはみ出てしまった〝非生産的〟部分である「休息」と「遊び」と言う文明的課題に言及する著者に対し、筆者は繰り返しになるがまた言及するのをお許しいただきたい。

ヴェーバーは資本主義も含めた近代西洋社会が「自らが選んだ価値とその価値(目的)に合わせて徹底的に手段化(合理化)するプロセス」によって発現した、と分析した。そしてその徹底化の倫理的基盤は経済的動機や経済合理主義(利潤の追求)からではなく、一見それとは全く無関係の宗教的倫理(世俗内禁欲主義)から来ている、と見定めた。しかし一旦(資本主義社会が)社会システムとして機能し始めると、宗教的基盤は失われ官僚的支配によって支えられるようになり、その支配が徹底すると「意味の喪失」と呼ばれる人間疎外の状況に立ち至った。それを「鉄の檻」と表現した。

このヴェーバーの分析を背景として「遊び」を見る時、「遊び」はこの合理主義的経済システムの評価基準からは「無駄・浪費・時間つぶし・気まぐれ・戯れ」と言うマイナス要素に見られてしまうが、逆にこの「鉄の檻」のようなシステムに組み込まれて行くことを(意図せずに)拒む意志の発現、と積極的に捉えられるものではないか。マーシャルはこのような社会学的観点から批判しているわけではないが、神学的視点からもかなり近い視点が得られているのではないかと思う。

クリスチャン的・聖書的世界観からはさらに、「遊びは、クリスチャンにとって最も崇高な召しの一つだ。」とあるように、「遊び」は被造物たる人間の本質に関わる「素晴らしく、正当で、敬虔な仕事」となる。但し「仕事」が〝正当化〟の根拠を持つピューリタン的労働観からそう言えるのではなく、聖書の人間観からこそそう言えるのではないか。

信仰者は、明日のパンを造物主の摂理と配慮を信ずるが故に、労働や生産から一時離れ、「この世界でくつろぎ、神との平和を楽しむ」ことができる。遊びは子どもの最も得意とするところである。彼は親の庇護のもと安心して遊びに没頭できるからである。
            なぜ着物のことで心配するのですか。
            野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。
            働きもせず、紡ぎもしません。

遊び(や礼拝は)根源的にこの被造世界に何も持ち込まず何の改変を行なわなくともそれ自体が神のわざであることを認めさせ、賛美に導き、その中で憩うに値するものであることをデモンストレートするもの。つまり〝現在する〟(今を生きる)集中的表現となる。

| | コメント (0)

« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »