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第九章 『自然界』(134-150)

                                                            小嶋 崇
《抜粋》

「自然界というものは、「人間なしに、素朴な雄大さを保って営みを続ける、調和のとれた天国のような世界」ではない。自然とは神の造られた世界の一部であって、人間から独立したものではない。人間と関係を持つべく造られたのであり、ある意味では、自然は私たちのために造られたのである。それは、私たちが自然界のために造られたのと同じだ。私たちは人間社会に責任を負っているだけではなく、自然界に対する責任も負っている。」(136)

「自然界に関する聖書の教えは、今日一般的となっている二つの間違いを正してくれる。第一の間違いは、地球というものを自分たちの好きなように使える所有物として扱うことだ。人間の必要に応えるためだけに自然界が存在しているという考え方である。(中略)
もう一つの間違いは、自然界は自己充足している純朴なもので、放っておかなければならず、人間が介入してはならないものという考え方だ。」(139-140)

「私たちの務めとは、地とそれに満ちるすべてのものの世話人となることだ。そこで、何が人に求められているのかをはっきりと知る必要がある。

第一に、私たちは、土地、土壌、木々、海、鉱物といった自然界だけではなく、ありとあらゆるものの世話人である。それには、時間、体力、健康、団体組織、家庭生活、仕事のスタイル、建物、という人間の生活に関わる一切が含まれる。

第二に、神が望まれる方法でそれらを世話するということだ。美的センス、保護、正しい利用といった、愛を表すあらゆる方法に注意を払いつつ世話をすることである。何かの世話人となることは、その物が被造世界の中で占めている正しい持ち場を意識し、乱用されたり、虐待されたりしないよう気を配って保護し、どのようにまわりに益をもたらすかを知って、「実り豊か」なものにすることをいう。つまり良きものが保たれるように世話し(保つ面)、祝福をもたらすように使う(使う面)。」(146)

《主ポイント要約》

「地を治める」責任について、著者は既に二章において「聖書的世界観」から総論的な言及をした。この九章では、新たにキリスト教界内での言説を越え、地球環境問題が論じられる公的な場での共有概念である「自然・自然界」に対して、どうアプローチするか、と言う問題に言及する。

キーワードとなる「自然(界)」は現代において二つの相対立する考え方によって綱引き状態にある、と著者は見ているようである。一つは産業革命以降顕著な人本主義的自然観であり、もう一つはその反動とも言えるロマンティシズム的自然観である。現在、様々な開発・建設局面で立ち現れる、「開発推進派」対「環境保護派」の対立はこの二つの自然観の相克、と分析される。

著者はこの「世界観的」対立状況を眺めながら、人本主義的自然観も、ロマンティシズム的自然観も、両者とも「人間」と「自然」が分離(独立)された見方の上に成り立っていることを観察し、その上で、「人間」と「自然」が被造世界の中で関係付けられたものとする、(つまり両者の見方を抱合する)聖書的世界観を提示しようとする。

聖書的な人間観・自然観は、人間も自然も共に神の被造物として存在し、相互が関連付けられていることを認めることから始まる。人間は被造世界の「世話人」として「自然界」にも働きかけ(正しい利用)、かつ保護する責務を有する。

また著者は二章では取り上げなかった「環境破壊問題に関するキリスト教信仰批判」に対しても、簡単に弁明を試みている(145-6)。

《インターアクション》

私の教会が属する団体は、サマーキャンプと言う泊りがけの集会を毎年同じ場所で開いて、かれこれ三十年がたつ。海岸に面したその場所は、長く伸びる砂浜と小さな入り江の岩場があり、宿舎は少し丘に上がった松林の中にある。〝雄大な自然〟と形容してもそれほど誇張にはならないこの場所が、数年前豪華に〝リニューアル〟され、毎年整備が続いている。おかげで大分昔の面影を失ってしまった。砂浜や松林がきれいに〝整備〟される度に、「自然の景観を壊して人工的オアシスに取り替えるなんて、何てつまらない・・・」、と私は思ってしまうのである。

さて以上のような私の感慨にはどの程度「ロマンティシズム的自然観」が反映しているのだろうか・・・。確かによく考えてみると、「大自然」とか「原生林」と呼ばれるような〝まったく人間の手垢のついていない無垢の自然〟と言ったようなものは殆ど存在しないだろう。私たちが残念に思ったり、嘆いたり、怒ったりする景観破壊は、そのような自然ではなく、里山のような、あるいは棚田のような、適度に人工的に作られた景観であり、自然とうまく調和した生活の美しさではないか。

マーシャルは「使う面」と「保護する面」の二面を同等に「地を治める」働きとして位置づけようとしているように見えるが、現在の地球環境危機(特に地球温暖化問題など)を招来した主要因が科学技術の発展をベースにした産業の肥大化であるとするならば、問題設定の仕方は、「人間がどのように自然界を有効活用するか」と言う「使用面」からではなく、「如何に環境破壊の進化を鈍らせ、存続可能な経済モデルを模索するか」と言う「保護面」からのアプローチに比重が移らざるを得ないのではないか・・・。

つい先日(2007年1月17日)、アメリカ福音主義連盟とハーバード大学の「健康と地球環境研究所」が共同で、ブッシュ大統領始め大統領候補者らに、温暖化問題に対して地球環境保護を政策的にも一層前面に出すよう要請する声明を出した。興味深いことに、この科学者と宗教者の共同作業の過程で、宗教者側が「環境」を「被造世界(creation)」と呼ぶことに最初は抵抗を感じていた科学者たちがやがて違和感を感じなくなった、と報じられている。マーシャルがこの章で試みている、「どのように公的議論に入っていくか」の最初の問題である「キーとなる概念」に、より中立的(科学的)「自然・環境」を採用するか、それとも敢えてキリスト教神学要語である「被造世界」で一貫するか、の一つの参照例となるだろう。

  上記ニューヨークタイムズの記事(1月17日)はここをクリック

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