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第十章 『政治的責任』(151-166)

                                                            

                                                              小嶋 崇
《抜粋》

「個人的な意見が何であろうと、多くの国民を治める技術である政治がなければ、一国は立ち行かないし、現実には国民は何かしらの方法で治められている。政治は神が人間に与えられた責任の中でも大切な部分だ。それは聖なる奉仕の一つの分野であって、私たちはそれから逃れることはできないし、逃げてはならないのだ。」(154)

「クリスチャンが政治に関わろうとするとき、何が大切なのだろう?それは『人間が責任を持って下す判断』と言える。旧約律法や新約の原則を持ってきて、それを、当時とはかけ離れた今の状況にそのまま法律として当てはめる、といった単純なことではない。特定の政治体制が、聖書の中で勧められているわけでもない。しかしながら、聖書には、政治の当局者が神のしもべとしてどうあるべきか、何をなすべきかを教える一貫したガイドラインがある。」(158)

「だが、票集めや世論形成の努力をしないなら、権威主義か独裁主義が台頭してくることになる。この事実は重要で、ぜひ心に留めておく必要がある。選挙と政治のごたごたは、あらゆる民主主義的な社会が通らなければならないものなのだ。」(162)

《主ポイント要約》

広義の「地を治める」責任はあらゆる文化領域をカバーするが、著者にとって「政治の領域」は自身の職業的専門性の観点からもとりわけ関心の深いもののように思う。

根本主義まで含めた広い意味での福音派の中には、政治を俗物視してこれをなるべく忌避しようとする傾向と、逆にキリスト教的価値観を社会全体に反映させようと急進的に政治過程に介入する傾向(アメリカ福音派に特有と言えるが)、があると言える。著者はこの両者に分裂した傾向を見据えながら、クリスチャンがどのように政治に関わるべきか、バランスの取れたアプローチを提示しようとする。

著者は先ず、政治を忌避するタイプのクリスチャンに向かって、政治に対する積極的な視点を植え付けようとする。聖書(特に旧約)の記述から、「政治」の原初的姿、すなわち「弱者の上げる痛みの叫び、解放の叫びを聞く」神の姿に注目する。次に、神ご自身の「裁く神」、「不正を正す神」としての振る舞いは、次第に人間の為政者に委託され、イスラエル史において司法や君主制が発展する過程を示す。このように神が被造世界において政治に深く関わっていることを示そうとする。

著者はさらに聖書から「キリスト者が政治にどう関わったらよいか」のガイドラインを示す。それらは、正義を行なう、保護を必要としている人を守る、公平な政府、法のもとの平等、人の権威・権力の制限、といった点にまとめられる(158-160)。

ここまでが言わば「政治の基礎と実際、入門編」である。次に具体的適用に入って行くが、「民主主義」の問題が取り上げられる。著者は一定の留保を置いてであるが、民主主義制度が最も聖書的原則を反映していると見ているようである(160-161)。

さてここからが先に指摘した「広い意味での福音派の分裂した傾向」の問題と絡んでくるのだが、先ず政治を忌避するタイプのクリスチャンに対しては、「多数派形成」や「世論形成」といった政治プロセス、さらに「妥協」や「取引」のような政治手法の必要性を指摘する(161-163)。一方キリスト教価値観の主張だけを政治に持ち込もうとするタイプのクリスチャンに対しては、短絡的、近視眼的な傾向の危険性を指摘する(163-164)。

《インターアクション》

この本を手にしてから気が付いたことだが、著者を最初に(一度だけだが)見かけたのは1993年マニラでの世界福音同盟・信教自由委員会設立の準備会の会合でのことであった。(筆者はたまたま世界福音同盟総会会議だけに参加するはずであったが、代役で設立準備会にも参加する羽目になった。)

当時著者は既に(福音派)キリスト者として政治的働きに深くコミットしていたようだった。設立準備の会合では「信教自由」を聖書的にまた「人権」概念に基礎付けながら、特にクリスチャンが迫害されている国々で擁護することを優先課題としていた。その理念や方法論を構築する指導的存在の一人が著者ポール・マーシャルであった。彼は「言葉を厳密に規定する」のが得意と思われていたのか、みんなから「哲学者」とあだ名されていたのを思い出す。

さてちょうど「政治」が主題の章になったので個人的エピソードであるが著者の風貌を語らせていただいた。ユーモアのセンスに優れ、スポーツや遊びに対しても熱心で「人生を精一杯生きる」著者にとって「政治」は少し異分野のように思えるが、むしろ「被造世界で存分に生きる」ためにこそ「政治」と取り組まざるを得ない、そう言えるのではないか。

私の留学後半期、宗教社会学を学び、日本の天皇制を研究課題にするようになって読み始めた作家の中に評論家・加藤周一がいる。第二次大戦に巻き込まれ親しい友人を戦争で失った世代にとって政治とは何であるかを彼はしばしば語っている。

個人的には芝居や音楽・絵画鑑賞、そして文学など「美しいもの」に取り囲まれて生きるのを最上と考える者にとって政治は無粋なものに属すると言える。そんなものに時間を取られるより芝居の一つ見る方がどれだけ人生が豊かになるか…。しかし戦争と言うものは「美しいものに取り囲まれ、友人との親交を楽しむ」人生を暴力的に破壊してしまう。だから「美しいもの、豊かな人生」が価値高いからこそ、それを一瞬のうちに破壊してしまう戦争を憎み、国家が戦争に走らないように政治に取り組むのだ、と。

そんな風に加藤が語っていることに私は強い印象を覚えた。日本人の大半が「戦争を知らない世代」となった現在、政治はそれほど危機的な課題に見えない。しかし前章でも取り上げられた環境問題でも戦争でも、破壊が不可避となってからではもう遅い。政治はその前に、余裕のあるうちに取り組まなければならない課題なのではなかろうか。

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