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第十一章 『イマジネーションと芸術』(167-183)

                  小嶋 崇
《抜粋》

「何かを見つめ、心に思い描き、想像を膨らませ、創作し、可能性を思い巡らすことは、体を動かす労働や、知性を駆使する論理の賜物と同じように、世界にとって貴重なものだ。もしこのような賜物がなかったら、私たちを取り巻く世界は、無味乾燥で冷たい灰色の世界になっていただろう。本といえば、面白みのない教育調の散文だけ。建物は機能一辺倒の箱となり、家は必要最低限なものだけを置いた兵舎のようになる。礼拝は機械的で、生活は機能だけの世界になる。ところが、神は私たちを想像力豊かで芸術的な被造物として造られた。人間は、芸術家である神ご自身に似せて造られたからだ。」(168-9)

「服装について今まで長々語ってきたのは、それが、芸術的イマジネーションの唯一の表現だからでも、一番重要な表現だからでもない。何といっても私たちみなが日々関わり、毎日選んでいるものだからだ。この考え方の基本は、生活のどの面にもあてはまる。どのように礼拝するのか、どのように仕事をするのか、食べるのか、書き、語るのか、といった生活のどの領域も、与えられた創造性とイマジネーションを働かせて豊かにできるのだ。」(179)

「服が、ただ身体を被うだけのものでないように、食べ物も、ただ腹を満たすだけのものではない。十分に食べ物があるなら人はおのずとおいしい料理を求め、その歯触り、味、色合い、香りを楽しむ。料理は私たちに喜びを与えてくれる。そのような料理には、技術だけでなくイマジネーションが求められる。世界のどの文化でも、祝い事といえばたいていごちそうの時で、人々は時間をかけて料理するものだ。つまり、私たちは、空腹を満たすからといって、灰色で味のないどろどろとした食物では満足せず、この世界にいて嬉しいと感じさせるような色、味、香りの喜びを求めているのだ。(179)

《主ポイント要約》

サブタイトルから芸術全般について書かれていることを期待していた方は少々当てが外れたかもしれない。あるいは「キリスト教絵画・音楽・文芸について書いてあるのかな」、と想定していた方もやはり期待はずれだったであろう。著者がこの章で取り上げるのは専門のアーティストの何かではなく、普通のクリスチャンが日常生活で目指すアート、つまり想像力とセンスを働かせることについてである。だから「ファッション」や「料理」といった身近な話題が中心となっている。

著者がが聖書的根拠、あるいは例証として挙げるのは、箴言31章、知恵の擬人化である「スーパー主婦」、幕屋建設の内装を取り仕切ったベツァルエル、使徒の働きで称賛されているドルカスやルデヤ、など。さらに教会史からもピューリタンのジョン・オーウェンが証人として登場させられている。

著者が言わんとしていることは、どの程度までクリスチャンは芸術に関わっていいか、とか、どういう音楽や服装はクリスチャン的であり、どういうのはクリスチャン的でないか、という線引きの問題ではない。「この世」を警戒するあまり文化領域から撤退し、そうすることによって信仰を守ろうとする〝消極的〟守備的な生き方に対し、神の像として造られた人間の中に備わっている想像力・芸術性をむしろ自覚し、それを積極的に発揮することによって、喜びに満ち、神への感謝となり、世界を豊かにし、人々の称賛を得るような〝積極的〟な生き方もある、と言うことを著者は示そうとしている。

《インターアクション》

最近新聞で読んだ論説の中で一際目を引いたものの中に、藤原新也「デジタル化する人間の〝眼〟」(朝日新聞朝刊、2006年4月3日)がある。詳細は読んでもらうしかないが、プロのカメラマンがデジタルカメラの普及で人間の視覚が「階調の間引きと彩度の飽和点を求める」デジタル的感性になってきていることから観察したことは、「現代人の色彩感覚が〝自然ではない〟人工的な派手な色を好むようになってきていること」である。藤原はそのような色彩感覚(の好みの変化)が、人間の視覚を取り巻く環境の変化(つまり自然ではなく人工物により多く取り巻かれるようになった近代の環境変化)に起因しているだろうと推測する。

もう一つこの色彩感覚の変化と少なからず並行する現象ではないか、と私が感じていることを紹介しよう。これは「視覚」ではなく「味覚」の分野でのことである。

私はラーメンが好きで、昔はよく食べ歩きもした。それが最近余り行かなくなったのは評判の店に行っても「おいしい」と言うことがあまりないからだ。原因を考えると「スープの味」の問題に行き着く。総じて、スープの味がくどく、調味料の使いすぎ(味から言うと、「甘い味」に傾きすぎ)、なのである。「ラーメン激戦区」のように他店との競争でこれでもかこれでもかと、出汁の具材を増やす結果(やれ何種類の具が入っているとか…)、最早何からの出汁なのか分からなくなるぐらい〝くどく〟なるのである。

なぜだろうか。現代生活で、自分で調理して食べる事が減り、デパートやコンビニ惣菜に依存するようになっていることが関連しているのではないか…。市販の惣菜は(腐敗したり味が変わりにくいように)味付けが濃くなりがちであり、一般受けするように甘味中心となる。また食材選択においても、苦味や渋みなど一般受けしないものが排除される。たとえ旬の素材を使っても、そのものの味わいの中にある微妙な部分が濃い味付けで排除あるいはマスクされてしまう。それで「味覚過多」の悪循環に陥っているような気がする。

さて、マーシャルは「神はこの豊かさを虹だけでなく、夕日を通しても現しておられる。この原稿を書いている今も、西の空は紫とオレンジに染まってきている。神は夕ごとに、空をキャンパスとして絵を描いてくださり、世界中のどの美術館よりも多くの観客を集めている。しかもそれは毎日違うのだ。」(169)、と自然に見られる〝微妙な色合い・多様性〟の素晴らしさを指摘しているようなのだが、私たちの取り巻く環境が、「外なる自然」も「内なる自然(人間の視覚・味覚)」も藤原が指摘するように、「デジタル的」「人工的」なものに取り替わっているのだとすると、その変化は「豊かな自然」対「(想像力や感性の欠如の結果である)単調・機械的・無味乾燥」(168-9)のような構図では捉えられない面が出てきているのではないだろうか。

美観のベースとなる色彩に対する視覚的感性の中から中間色が間引きされたり、「おいしさ」のベースとなる味覚の巾から苦味や渋みなど微妙な味が排除されたりする過程で、人間は必ずしも感覚的に単調になっているのではなく却って「鮮烈で派手なもの」「くどくて濃い味」を好む結果になっているのだとしたら、それは果たして何を意味するのだろうか、という問題があるのではなかろうか…。

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