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2007年7月

第十ニ章 『テクノロジーにおける自由と責任』(184-200)

                                                小嶋 崇

《抜粋》

「人間生活のすべての分野に何かしらの技術的側面があるので、技術やテクノロジーを語るということは、ある意味で人間生活のすべてを語ることとなる。責任を持って技術を使うことは、賜物であり召しなのだ。それは、神が下さった資源の姿を変えていくという人間の務めであり、想像力と技術を何か役に立つことのために使うことなのだ。」(187)

「将来の社会がどのようなものになるかは、私たちが選ぶテクノロジーやライフスタイルによって決められるのだが、その「社会」には私たち自身の価値基準や感性も含まれる。つまり、私たちの目標、希望、恐れ、信仰、要求といったものが、まわりの社会状況によって変えられていくのだ。」(196)

「そのような偶像と手を切ることは、単に「新しい別の価値観を見つける」ということではない。いや、それ以上のことが要求されている。偶像というものは、根本的に宗教的なものだ。そのため個人としても社会としても、テクノロジーに関して安易にオルターナティブ(代替案)を探すのではなく、宗教的に明確に回心することがまず求められている。つまり、工場で、仕事場で、実験室で、「テクノロジーは手段であって目的ではなく、しもべであって、未来を約束するものではない」と日々信じなければならない。天の御国は、テクノロジーではなくて神に信頼する心の貧しい者に約束されている。テクノロジーにおいて、正義と清さを求める心のきよい者は神を見る。テクノロジーを通して、力と名声ではなくて仕えることを求める、へりくだった者は本当に地を相続する(マタイ5・5脚注参照)。私たちはこの現実にしっかりと目を据えていなければならない。イエスの教えは、どこか遠く離れた理想世界で通用する道徳律なのではなく、テクノロジーを含む私たちの生活のあらゆる面において、最も根源的でかつ現実的な生きる基準なのだ。」(198)

《主ポイント要約》

近世ヨーロッパで、『自然界』に対して開発主義的な見方とローマン主義的な見方(手付かずの自然礼賛)とが対立していたように(9章)、『テクノロジー』に関しても似たような位置取り・対立がある。(両者は相互に深く関わっているので当然のことだが。)キリスト教的立場に限っても、非常にテクノロジーに否定的・悲観的な見方がある。(ジャック・エリュール「技術社会」が著名だが。)

著者はかつて地質学者として、プリミッティブな自然に触れる経験が、鉱山資源開発という自然破壊のお先棒を担ぐ仕事として成立していたことを思い出し、テクノロジーの問題が簡単ではないことを印象付ける。その上で、テクノロジーからの逃避や否定ではない取り組み方を模索する。

前章で取ったアプローチと同様、マーシャルは一方的に否定的な見方、一方的に肯定的な見方のどちらの立場も取らない。テクノロジーそのものの功罪を論ずるのではなく、「神の像に造られた人間に備わった、被造世界に働きかける資質の現れとしてのテクノロジー」の問題を論ずる。テクノロジーもまた、知識や政治や芸術と同様、神からの「賜物」「召し」として位置付けられ、いかにしてこれらの賜物の良き僕・管理者となればよいのか、という視点から論じている。

「テクノロジーは道徳的に中立」とする見方に対しても批判を加え、実際から、聖書から、テクノロジーが「祝福と呪い」「善と悪」の二面を持つものであることを覚え、現代社会に密接に組み込まれたテクノロジーが偶像化し、社会全体の方向性を決定し得る影響力を持つ点を特に問題視する。そのような偶像化したテクノロジーに対し、クリスチャンは霊的な感性を鋭くし、批判的に対峙して行く必要を強調している。

《インターアクション》

テクノロジーを一つの賜物・手段としてキリスト教的・聖書的世界観の中に位置付けることは、理論的にそれほど難しいことではないだろう。しかし実際において、テクノロジーを一つの賜物・手段として運用する時、他の文化的賜物(知識、政治、芸術)の場合と同様、二つの「複雑化する要素」が絡んでくるのを念頭におかなければならない。

一つはそれらの賜物や手段が、最初に意図した個人の手を離れ、社会に組み込まれる段階での問題がある。一端社会化すると、個人の意図や動機に容易に還元されない複雑な関係の下に置かれる。マーシャルが冒頭で指摘したような、個人レベルでの取り組み(〝自然〟を調べる)と、それが社会システムの中で機能する意味(環境破壊)は、時に矛盾した形で現れる。また、この章の後半で指摘しているように、社会は個人の価値観を既に一定方向に規定するように働く、などと言った問題である。

二つ目の「複雑化する要素」は、人間の宗教性が関わってくる問題、「偶像化」の問題である。ある意味で「社会」が個人を超越するように、(テクノロジーという)僕・手段もその主人を超越(偶像化)する、という問題である。啓蒙主義が徹底し、国家や倫理が教会の権威から脱し、世俗化が進んだ西洋において、あらゆるものが中立化したように見えて、実は宗教性の問題はなくなっていない、というのがマーシャルの指摘である(特に次章で中心的に取り上げられている)。

故に、クリスチャンがテクノロジーを自由と責任を持って行使するには、この二つの「複雑化する要素」に対して批判的な目を持っている必要がある。世俗社会は無宗教化したように見えて、実は様々な神話が創造され、メディアを通して影響を与えている。テクノロジーも「未来を拓くのはテクノロジー」式に一つの〝終末論的メッセージ〟が込められた神話に発展している可能性がある。クリスチャンはその神話を神学的に吟味し、その偶像性を指摘し、イエス・キリストにおける「神の国」の福音を正面からぶつけなければならない、と説く著者は現代社会の宗教性を鋭く指摘している。一時代前に「技術社会」を著したジャック・エリュールほどではないが、偶像性に関して言えば、多分に「デーモニッシュな技術」というエリュール的視点も提示しているように見える。

翻って日本のことを考えると、自分の育った子供時代は科学、テクノロジーに対する楽観的な終末論をベースにした神話が特に漫画を通して植え付けられていたのではないかと思う。手塚治虫の『鉄腕アトム』に始まり、横山光輝の『鉄人28号』、桑田(?)誰とかの『エイトマン』、石森章太郎の『サイボーグ009』などなど。もっともこれらのロボットやサイボーグが、デーモニッシュなテクノロジーを表象していたかというと、そうでもないような気がする。むしろ勧善懲悪の〝ヒューマン〟なドラマの中で〝ヒューマン〟な役割を果たしている。その分デーモニッシュな役割はむしろ人間が果たしていたわけだ…。

ともあれ、テクノロジーの分野が何であれ、そのテクノロジーを「神の国」に近づける、あるいは「神の国」を目指すものとするためには、どんな価値指標、あるいは価値基準を組み合わせていけばいいのか、〝複雑化する要素〟に留意しつつ学ぶ必要があるだろう。

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