« 第十ニ章 『テクノロジーにおける自由と責任』(184-200) | トップページ | 第十四章 『伝道、新しい生き方への招き』(221-237) »

第十三章 『礼拝か偶像礼拝か』(202-220)

                                           小嶋 崇

《抜粋》

「人間や会社、書籍、また政府などは『宗教的に中立』になど決してなり得ない。神に向かうのか神から離れるのか、あるいは少しずつその両方をとるのかという宗教的な方向性が、一見宗教的ではないと思われる組織や信条、思想や言動の中に表れている。」(205)

「だからといって、現代の偶像と呼ぶものそれ自体が悪いわけではない。正当な自衛のための軍備、金銭、教育、また仕事が本質的に悪なのではない。そのようなもの自体が善か悪かという議論は的はずれだ。偶像礼拝の出発点は神以外のものに信頼を置く私たち自身なのだ。」(209)

「偶像礼拝の本質が、その物自体ではなくて人間の側からの間違った信頼であるならば、私たちの姿勢を正せば、一度は偶像となったものを再び『非偶像化』し、その正しいあり方に戻すことができるからだ。偶像にささげられた肉の問題でパウロが用いた方法がこれである(Ⅰコリント10:23-33)。偶像礼拝は一方通行ではない。ちょうどどんな物でも偶像になれるように、どんな物でも本来の正しいあり方、『神からの賜物』に戻すことができるのだ。」(218)

《主ポイント要約》

ギリシャ思想的霊肉二元論に影響されたキリスト教が、悲観的・消極的「この世」観のもとに「この世を治める」責任を逃避する傾向に警鐘を鳴らしてきた著者だが、逆に「この世」に積極的に従事するからこその問題があることをこの章で指摘する。それが偶像礼拝の問題である。

世俗化した現代人は「偶像崇拝」を「宗教的な形式」とか「未開文化の迷信」の問題と誤解し、自分たちとは関係ないと思いがちだが、著者はそうではないことを指摘する(208-9)。すなわち、人間というものが「何かしらを礼拝し、何者かに仕える宗教的な存在」であり、その宗教性を「日常生活に具体的に反映させている存在」である、と言う視点から現代の偶像礼拝問題を考えようとする。

偶像礼拝の問題を考える上で著者が重要視するポイントは、礼拝というものが本来「生活の中心にあるべき」もので、仕事とか、家庭とか、何か「この世」から離れてあるものではない、という点である。それは同時に偶像礼拝の問題も「生活のあらゆる面に及ぶ」ことを意味する。既に前章では「テクノロジー」についてそのことを考察したが、この章では「この世を治める」文化領域全般に偶像礼拝の問題があることを指摘する(211)。しかし著者は偶像礼拝の〝危険〟を指摘するだけでなく、一度偶像化されたものを「非偶像化」する、回復・修復的な働きが可能であることを指摘する。

《インターアクション》

 現代の偶像、超高層ビル - 9.11同時多発テロ後に思うこと

「現代の偶像の問題を果敢に斬る」この章を読んで、二つの大事件と関連させてみたいと思った。一つは米国で起こった2001年9月11日の同時多発テロ。もう一つは1995年1月17日の阪神淡路大震災である。

先ず最初の《抜粋》には採用しなかったが、マーシャルがこの本を著した1998年時点で書いたこととして以下のことに目を留めてみたい。

都市というものは、都市計画を推し進める者や都市づくりを意識してそこに住む者の考えだけを反映しているのではない。住む者が意識していなかったとしても、生きていく上で何が大切なのか、何が偶像なのか、ということを驚くほどはっきりと表している。(213)

では、現代の都市の中心には何があるだろう。銀行や大企業が所有する超高層ビルである。現代人にとっては、金儲けが生活の中心なのだ。(214)

ある意味で、同時多発テロ実行者たちは、西洋社会を代表する現代アメリカが何を中心にし、何を偶像化しているかと言うことを、そのテロ行為によって浮き彫りにしようとしたと言えるのではないか。マーシャルもこれを書いてから数年後に起きた同時多発テロには、しかし「ずばり言い当てた」以上の大きな衝撃を受けたに違いない。多分に「現代の偶像」はその下で住む人にとっては日常的風景になり、それが宗教性(偶像性)を帯びた象徴として持つ意味はそれ程意識されないのではないだろうか。それを異なる文化圏にいる者たち、あるいは文化的にアメリカと覇を競う者たちが、テロのターゲットに選ぶ段階で「何がアメリカの偶像なのか」を絞り込んだ結果が、ワールド・トレード・センターであり、ペンタゴンであったのではないか。テロと言うものが象徴的なものをターゲットにして最大の衝撃を与えるため、奇しくも(彼らから見て)何がアメリカの力の象徴、誇りの象徴なのかを如実に示すことになったのではないか。9.11同時多発テロは一つの〝偶像破壊〟行為であったことを示していると思う。(言うまでもないが、その象徴とされテロの対象とされたビルには、犠牲となった〝普通に仕事をしている人たち〟が大勢いたのだ。)

さて今度はより身近な阪神淡路大震災に関してだが、同時多発テロとの関連で、また現代の偶像、超高層ビルとの関連で考えさせられたことを紹介してみたい。そのきっかけとなったのは確か大震災後10年を記念するNHK教育テレビのドキュメンタリー番組であった。作家の高村薫氏がチーフ・コメンテーターとして番組製作に関わっていた。その中で彼女が大きな疑問としていたのは、大震災後間もないうちに、大した反省もなく、超高層ビル建設ラッシュにまい進する大都市東京の姿であった。私は番組を見て大いに同感するところがあった。その第一は、超高層ビルを建てる合理性の問題。「人の住む場所」として安全がなおざりにされていると言う問題であった。「限られた都市空間に多くの人を住まわせるためには〝上〟に住空間を広げるしかない」、と言うのは一つの(経済)合理性には違いないが、地震国日本、確実に超大型地震が近いうちにある、と言われる場所での合理性としては大いに疑問である。もう一つの点は、高村氏が大いに嘆いていたように、あれほどの被害をもたらした阪神淡路大震災から何も学んでいないのではないか、反省が活かされていないのではないか、と言う点である。勿論超高層ビルはそれなりに耐震とか、免震とかを考慮しているわけだが、実際に地震が起こった場合の生活面での様々な問題や困難を殆ど顧慮していないのではないか、と言う疑問である。地震の時、超高層ビルを覆うガラスが割れ、剥奪落下するとどうなるのか。停電でエレベーターが止まったら高層階の生活はどうなるのか…。本当に地震災害時を視野に入れて都市計画がされているのだろうか、危機に対しても、人の安全、生活を重視して超高層ビルは造られているのだろうか…。はなはだ疑問に思う。(しかしどう言う訳かこの狂気と思える傾向に対し警鐘を鳴らす者が少ないことも解せないことであるが…。)何かしら安全とか生活とかを超えた推力が超高層ビル建設ラッシュに働いているような気がしてならない。

|

« 第十ニ章 『テクノロジーにおける自由と責任』(184-200) | トップページ | 第十四章 『伝道、新しい生き方への招き』(221-237) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 第十ニ章 『テクノロジーにおける自由と責任』(184-200) | トップページ | 第十四章 『伝道、新しい生き方への招き』(221-237) »