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第十四章 『伝道、新しい生き方への招き』(221-237)

                                            小嶋 崇

《抜粋》

「イエス・キリストを信じる信仰によって、罪の赦しと永遠の命が与えられるというのが福音の中心だ。それはまた、来るべき復活後の命についても語っているのだが、今の人生についても語っていて、今日、新しい生き方をするようにと人々を招いている。この新しい生き方とは、人間が行うあらゆることにおいて、被造物を通じてイエス・キリストに仕えるということだ。説教者であろうと、芸術家であろうと、伝道者であろうと、トラックの運転手であろうと、教会の執事であろうと、科学者であろうと、私たちはこの新しい生き方に召されている。」(224)

「彫刻をしたり車を修理したりするとき、政治に加わったり子育てをしたりするとき、農業を営んだり野球をしたりするとき、私たちの第一の願いが人々をイエス・キリストに導くことであってはならない。その仕事なり遊び自体が、良いことで、喜びをもたらし、人に仕え、人の助けになるから行うのだ。それ自体が、満足感をもたらし、楽しいからだ。神が信仰によってそれを行うように私たちを召しておられるからなのだ。」(226)

「日常生活の様々な分野でまず目指すものは、あからさまな伝道であってはならない。だが、心をこめてなす日々の務めは、伝道を大いに助けることになる。もし私たちの日々の行いが、伝道を目的とせず、またノンクリスチャンを伝道の『ターゲット』にしないならば、彼らはクリスチャンに好奇心を抱くことになるだろう。もしキリスト教信仰が、良い家庭や良いビジネス、良い芸術、良い本、良い政治を生み出していくならば、人々はそれに気づき興味を持つだろう。伝道はキリストにある新しい生き方の第一の目的ではないが、その結果として現れてくる。」(227)

《主ポイント要約》

ここまで著者は「この世で創造的に生きる」人生観の基礎となる《聖書的世界観》(2-5章)、「世を治める」具体的召命としての《文化領域》(6-13章)、と展開してきたわけだが、この章ではそのような視点から「伝道」を捉え直している。

「伝道」と言えば福音的クリスチャンにとって(大げさに言えばの話だが)「天国に召される前、地上での唯一の存在目的」と思われてきたものだ。その反動として「世に生きる上での様々な活動」は〝この世的な価値しかない〟ものとして低く見られてきたわけだが、今度は新しい世界観の下で「伝道」と「文化活動」がどういう位置付けになるかを関係付けているのが本章である。

伝道が一種の〝イデオロギー闘争〟となり、それに組み込まれる文化やメディア(文学、音楽)が〝プロパガンダの道具〟に成り下がってしまう(226)、と言う著者の指摘には現代福音主義と全体主義的共産主義との類似性が暗示されているかもしれない。しかし「メディア」の重要性を認める著者は、文学ではルイス、トールキン、セイヤーズらの著作を例に挙げながら、その影響力・インパクトの出所がクリスチャン・メッセージの単純な主張ではなく、文学として高いレベル(人を感動させる)にあることを指摘する。さらに現代最も強い影響力を持つメディアとして「映像」に注目し、ここでもクリスチャンがもっと進出するよう要請する。

要するに「伝道」と言う短絡的な行動パターンに陥れば「キリスト教の持つアッピール度」はかえって下がるが、神の召命・賜物として各文化領域に生きれば、人々はその文化領域での良き働きの故に背景となるキリスト教世界観に(結果として)関心を持つことになり、期せずして「伝道」をすることになる、と言うのが著者の論法のようだ。

《インターアクション》

伝道と世界観

この本の中には世間が〝伝道熱心なクリスチャン〟をどう思っているか、どう感じているか、少し皮肉った文章でしばしば言及されている。例えば「クリスチャンでない人々は、クリスチャンにほとほと嫌気がさしている場合が多い。どんな会話にもイエスを持ち出す福音派の人間は不愉快だし、物笑いの種にもなっている。」(97) 

著者はただの「伝道熱心」な一途さを皮肉っているのではなく、福音主義の持つ「性格」、判で押したようなその「行動パターン」が出てくる背景(思想と生活の起点)を問題にしているのだ。それが世界観的背景の問題であり、伝道の問題もまた世界観の問題を抜きにしては語れないことをこの章は指摘している。〝伝道熱心なクリスチャン〟が伝道を単なる「福音の伝達」と勘違いしストレートな伝道を展開している時、相手は伝道する人間の行動パターンに反映されている世界観を嗅ぎ取っていることを忘れてはならないだろう。また福音主義の人たちが伝道のことを語る時に、依然として「方法論」や「効果的な伝道」と言ったテーマに終始しやすい点も反省しなければならない。著者が指摘するような「文化的・世界観的文脈」で〝伝道する行為〟を問い直してみることが大切なことだと思う。

伝道とメディア

確かに伝道が「福音の伝達」と言う面を持ち、また不変の真理としての伝達内容が重要であることは認める。しかし「クリスチャンは直接的で大上段に構えるのが好きで、伝えたい内容をはっきりと誤解の余地なく相手に分からせたがる。間接的で、思わせぶりで、暗示的で、あいまいなものには耐えられない。だらだらと、それとなく伝えるのではなく、ずばり語りたいのだ。」(233)と著者が言う時、問題になっているのはまさに「メディア・媒体」の問題だと思う。著者がここで指摘しようとしているポイントは二つに分かれるのではないかと思う。一つは文学や音楽、映像と言った異なる言語形式・メディアに目を向けろ、ということ。これは14章で展開している通りである。

しかしはっきりと俎上に載せて論及していないもう一つの(隠れた)ポイントは、近代主義を背景としている(と思われる)「真理観・啓示観・聖書観」ではないだろうか。即ち「真理」と言うものが「1+1」の数学公理のように(論理的な)言語形式で明晰に表現でき、「そのような真理が聖書に啓示されていて、それらを命題的に組織しなおせば、神が啓示しているすべての真理を提示できる」と言ったような捉え方のことである。注意しないとこのような「真理観・啓示観・聖書観」は硬直化し、短絡化した真理把握に陥り、〝伝道〟の文脈でも福音の提示において指摘されているような行動パターンになってしまうのではないだろうか。

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