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2008年4月

十五章 『耐え忍ぶ』(238-248)

                     小嶋  崇

《抜粋》

「私たちの希望、喜び、期待は天からのものだ。復活、更新、喜びは確かにそこから来る。主の再臨の時、私たちのあり方も生き方も変えられるだろう。このため私たちはその時を待ち望み、苦難に耐え、希望にあふれているのだ。助けは必ず来る。しかし、今はまだ、約束された究極の助けは来ていない。私たちは死と腐敗、そして怠惰に悩まされ、迫害と拷問に直面している。悪者が往々にして成功し、逆に正しい者や気高い者、勇気ある者や忠実な者が、想像を絶する苦悩を味わい、その苦しみと絶えまない闘いの中で生き、そして死んで行くのを見る。したがって、私たちは希望を持って生きるだけでなく、長い苦難を耐え忍ぶという聖書が語る忍耐をも持って生きていかなければならない。聖書がたびたび勧めるように、主を待ち望むのである。」(241-242)

「この時代にあって、神の国はまだ完成の時を迎えていない。だが同時に神の国がすでにここに来たので、痛みと失敗だけでもない。私たちが生きているのは、最後にふるいにかけられる以前の時代、麦と毒麦が共に育つ時代だ。それゆえ、悪に対し即座に完全な勝利を得るなどと思ってはならないのだが、同時にフランシス・シェファーが『実質的ないやし』と呼んだ本当の変化、平和と愛の真実な実を期待することができる。忍耐深く生きていくとき、そこに違いをもたらすことができるのだ。」(248)


《主ポイント要約》

既にマーシャルは「この世で創造的に生きる」ための土台となる世界観を聖書から提示し(2-5章)、その具体的召命(6-14章)について各論を展開したが、この本を締めくくるにあたって、最後の三章を『終末論』的展望と励ましに用いる(15-17章)。

世界観を構成する上で重要なのが『歴史観』と言える。どういう時間軸の展開の中に世界と自分を置いて『ストーリー』を構成するのか。(時間軸にしたがって展開があるのかどうかもどのような世界観かの分岐点となるのだが…。)既に2-5章で、《創造》《罪・堕落》《贖い》と言う最も基本的ストーリーを提示したが、特にそのストーリーの完結する姿と、そこに辿り着く歴史的プロセスを扱う『終末論』的論考を通して、読者に警醒と励ましを与えようとする。

キリスト教では、歴史の到達する究極的目的・地点を《贖い》の完成する姿、《贖い》の完成する時と捉え、終末の諸局面を『キリストの再臨』『復活』『万物の更新』と言った聖書的表現から接近する。そしてこの(破滅ではなく)〝完成〟する世界を『新天新地』とも呼んでいる。この究極的地点に達する歴史的プロセスが『終末』であり、その諸相を論ずるのが『終末論』であると言える。マーシャルはこの終末論にあたる事柄をこれらの章でいくらか詳細に論じ、「この世に生きる」クリスチャンの意識と自覚がどうあるべきかについて示唆を与えている。

15章で著者が特に強調する点は、キリストの時を迎えた今でも〝なお残存する悪〟に対する自覚と姿勢である。キリストの十字架と復活によって罪と死に勝利し贖いのわざが成就した今でもなぜ悪がまだのさばっているのか、と言う問題には深く立ち入らない。キリスト教リアリズムの視点から〝悪の現実〟を認識し、受け容れようとする。その上で忍耐の必要を説き、終末に担保されている希望によってこの忍耐を根拠付けようとする。

《インターアクション》

『既に』と『まだ』

新約聖書福音書の主題である『神の国』がキリストにおいて「既に到来したのか」それとも「まだ将来にその完成が取っておかれるのか」、と盛んに論議されてきた解釈問題がある。『既に』と『まだ』のどちらの要素も認める、と言うのが大勢のように見えるが、ことは聖書箇所の解釈問題に留まらず、キリスト者が「今」をどう生きるか、と言う実際問題にも深く影響してくる。

筆者が所属する教会グループは「アルミニアン・ウェスレアン」の流れに属し、キリスト者が「義と認められた罪人」から出発し、しかしそれに留まらず〝生きている間〟にもさらに罪から聖められ、それが一定の水準に達することで「キリスト者の完全」と呼ぶ実質的聖化を体験することができる、と言う立場に立つ。プロテスタント諸派の中でも、ルター派やカルヴィン派という先輩諸派に対し、イギリス国教会の伝統から出たメソジスト派の指導者ジョン・ウェスレーが広めた教理的立場としてよく知られている。ウェスレーは宗教改革者たちの一致した見方である「人の全的堕落」を認めた上で、なおかつ救いの恵みは生きている間でさえキリスト者の内に働いて罪に打ち勝つことができる、と言う積極的な救済論を展開した。

さて、ウェスレーにしても宗教改革者たちにしても、いわゆる『聖化論』は主にキリスト者個人の霊的体験と生活(倫理)を扱うものだが、この本で言及してきたような〝社会悪〟を含む、個人の道徳(力)を越えた次元で影響力を発揮する構造的な悪の問題を余り視野に入れてこなかった観がある。もっぱら「キリスト者個人の内に残存する罪の問題」を聖化論の考察対象にしてきたわけである。

しかし近代になり、キリスト教は個人的な罪の問題に留まらず、奴隷制や資本主義の弊害などに対し、マルクス主義とも相互に影響しあいながらキリスト教社会主義の取り組みや社会(制度)改革の取り組みを産み出してきた。19世紀末の「社会的福音」や最近では中南米での「解放の神学」もそのような位置付けで見ることができる。しかし20世紀に入るや『自由主義』対『保守主義』に分かれ対立するに至り、「社会悪」と「個人の罪」とを一つの視野に入れて救済を論ずることが困難な状況に立ち至った。自由主義陣営は「社会改革」を主張し、保守主義陣営は「魂の救い」を強調し、それぞれのアプローチを相互に〝反・福音的〟と見なすようになったからである。近年この不幸な対立はその基盤を失い、より〝全人的な救い〟を救済のゴールに位置付けるようになってきた。福音派の言い回しだと、「伝道」も「社会正義」も、と言う具合である。

『既に』を強調するアプローチの良い点は、ウェスレーのように「悪に対して立ち向かい克服しようとする」積極的動きが導き出されることである。実際ウェスレーの始めたメソジスト運動は産業革命がもたらした社会問題にも目を配ったし、この流れから貧困問題と取り組んだウィリアム・ブースが始めた救世軍が出てきたりもした。アメリカにおいても奴隷制や女性差別問題にいち早く取り組んだキリスト者がこの流れから出てきた。しかしその反面、マーシャルが牽制するように「楽観主義」や「勝利主義(トライアンファリズム)」に足元をすくわれやすい面もある。

『まだ』を強調するアプローチの良い点は、「罪の現実を受け止めた上で一定の改善を確保しようとする」安定した取り組みを導き出すことにある。民主主義の基盤でもある三権分立や「腐敗する権威」の観方の背後にはカルヴィニズムに代表される宗教改革者たちが主張した「人の全的堕落」教理の実際的適用がある。限定的ではあっても悪を制限する法律や制度を作る取り組みにおいて、キリスト教リアリズムが果たす役割は決して小さくない。しかしこれもキリスト者の取り組みとして見る時、御霊の実である「忍耐」が豊かにされないと「現状肯定主義」に流れたり、「悲観主義」の誘惑に陥りやすい。

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