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第十六章 『新しい創造』(249-263)

                           小嶋 崇

《抜粋》

「私たちは、身体のよみがえりを口では告白するのだが、どうやら心と思いを貫くまでに至っていないようだ。心のどこかで『いつか、この肉体から解き放たれた存在になる』と思っている。『本当は神は、私たちを身体のない霊として造る予定だったのだが、どこかで間違ったのだ』というようなイメージがないだろうか。実際アメリカ人の三分の二が、最後には自分たちの身体はなくなると信じている。」(253)

「現在の世界は滅びの火によって消えてなくなるのではなく、さばきの火によってきよめられるのだ。賞賛に値するものはすべて、それが、神が私たちに下さったものであろうと、私たちが創り出したものであろうと、新たにされた被造世界にもたらされる。すべて良きものは永遠なのだ。天と地が新たにされたとき、新しい地上の中心にあるのは聖なる都エルサレムで、その都の中心にはイエス・キリストがおられる。天と地にあるすべてのものは、このキリストによって本来のあり方に回復する。これこそが、いやされ、回復され、整えられた世界だ。」(258)

「キリストが来られる時、地を治めるという人間の務めは完全なものとなる。ヨハネは、地の王たちが都に来るだけではなく、その栄光を携えて来るとも言っている(黙示録21・24)。人類の歴史は、神の創造のみわざの延長とも言えるし、それは新しい天と地に継続されていく。『今ここにおける、私たちの手のわざのすべては、はかないもの』という考えは間違いだ。私たちの良きわざはいつか消え失せて、人々からも忘れ去られてしまうようなものではない。この世界は、神の新しい世界につながっている。神の像を担う私たちがなした最上の仕事は、建築であろうと、発明、医療、文学、芸術、ファッションであろうと、ただ過ぎ去るのではなくて、来るべき世界を飾ることになるのだ。」(262)

《主ポイント要約》

 『終末論』的展望(15-17章)が持つ意義は、「この世で創造的に生きる」ことの根本的動機付けに関わる点にある。15章のポイントは『終末』が与える希望によって『今を耐え忍ぶ』ことにあった。16章のポイントは『今、ここでの働き』が無駄にならないことを示すことにある。そのベースとなるのが「身体の復活」であり、更新される「新しい天と新しい地」である。

霊肉二元論的な視点からは『霊=永遠』に対し『肉体・身体=消滅』となり、物質的被造世界も、多種多様な労働が構築した文化遺産も、その物質性故に永遠から除外される。つまり「この世における働き」が永続性を与えられないため、「働き」への動機付けが著しく損なわれることになる。このような視点からは私たちの働きに見出す意義は良くて一過性の充実感、悪くすると徒労感に陥る。しかし「身体の復活」はこの霊肉二元論から導き出される労働観・文化活動の意義を根底から覆す。ここに『キリストの復活』に基礎を置く原始キリスト教の福音と、そのすぐ後に影響を持ったグノーシス主義との根本的相違が明らかになる。

著者は『身体の復活』に関して、それが単なる希望ではないことを福音書に記述されている『キリストの復活』によって示そうとしている。しかしより多くのスペースは第二ペテロにあるような「この世界の消滅」に関する誤解を解くために用いている。さらにイザヤの預言や黙示録がイメージする「新しい天と新しい地」に言及しながら、そこには(農業)労働や(都市)文化が持ち越されるだろうことを指摘する。つまり「世の終わり」は「この世」と「来るべき世」の完全な断絶の上に成立するのではなく、何らかの継続性(更新)があることを見ようとしている。

《インターアクション》

『死後のいのち』周辺

非キリスト教国日本で、キリスト教要語がキリスト教と全く関係ないところで使われることがたびたびある。商品宣伝のキャッチコピーに使われたりする「なんとかの福音」や、小泉政権時代の地方分権政策スローガンだった「三位一体改革」など。商売や政治に使われる言葉は美辞麗句で消費者を誘導したり、選挙民から都合の悪い事実を巧みに隠す目くらまし戦法のようなところがあるので、「三位一体」などクリスチャンでもよくその意味が分からない言葉などは好適なのかもしれない。

そんな中で「死後のいのち」に関し神道や仏教用語を背景にした日本人の伝統的イメージが『天国』と言う(一応)キリスト教要語に最近大分侵食されてきているような印象を受ける。親しい人が亡くなって「草葉の陰」から見守っているはずが、最近は殆ど「天国から見守る」ようになっているようだし、死後の魂は「三途の川」を越えて「冥土」に旅立つのではなく、直ちに「天国に移し変えられる」ようである。

さて「死後のいのち」に関する教えは東西いろいろあり、イメージ的には似通った部分があるため我田引水的に理解できる面もあるようだ。「新約聖書神学」の著者ジョージ・B・ケアード(N・T・ライトの先生)はその著書の中で「終末論」に関し次のような指摘をしている。

①新約聖書が取り扱う「終末」には、「個人的終末論」と「民族的・世界歴史的終末論」の2面がある。②(中世以降)19世紀末までの西洋キリスト教で終末論と言えば「個人的終末論」を指し、その取り扱う内容は『死』『審き』『天国』『地獄』であった。しかし、③20世紀に入りアルバート・シュヴァイツァーらの史的イエス研究によってもう一度「民族的・世界歴史的終末論」が脚光を浴びるようになった。(243ページ)。

中世以降近代までの「個人的終末論」が主関心であった(福音派も含めた)キリスト者は、新約聖書を読む時概ね「救い」とは現世の内にイエス・キリストを自己の罪の贖い主として個人的に信じ、『永遠のいのち』を頂いて死後『天国』へ行く…と理解してきたと思う。少なくとも「普通に教会に通って人生を全うする」クリスチャンの場合はそれで事足りた面がある。最初の抜粋でマーシャルが指摘している点(「身体の復活」の希望の薄弱性)は、霊肉二元論の影響もさることながら、「個人的終末論」に終始した神学の時代的性格もあるのではないだろうか。「身体の復活」の希望はイスラエル民族が異教勢力の抑圧と迫害の中で、現世の不正義(敵による迫害と殉教)が来世で復活によって正される(覆される)と言う正義の修復を可能にする契約の神の力(死者を復活させる)と義(悪を懲らしめ契約に忠実だった者に報いる)に対する信仰表明として形成されたようである(ダニエル12:2-4、Ⅱマカベヤ書7章など)。「身体の復活」の希望が単なる「死後のいのち」における『安息』ではなく契約の神による正義の審きであることを思う時、歴史における個人を越えた悪・不正(政治・社会に根ざす)に対する正義修復可能性を視野に入れた「民族的・世界歴史的終末論」が「個人的終末論」にさらなるリアリティーを付加するのではないか。

しかし最近まで支配的であったこのようなキリスト教的死生観・世界観(個人的終末論で完結していた終末観)に次第に亀裂が生じ、内外から揺さぶりがかけられてくるに及び(これは主に西洋近代の問題設定ですが、凡そ1500年から20世紀までの間に段階的に進行した「世俗化」と言われるマクロな変化に関係します)、もう一度「終末論」のカバーする範囲が「個人」から「世界・宇宙」まで拡大する時代状況を迎えているように思う。

そのような視点からあらためて新約聖書を読むクリスチャンにとって、福音書の語る『神の国』やオリブ講話の『世の終わり』(マルコ13章)、ローマ8章の『被造物全体の贖い』や『キリストの来臨』と『携挙』(Ⅰ、Ⅱテサロニケ)等が、「身体の復活」と「新天新地」の理解も含めて〝全体視野的な終末論〟を必要とするようになっている。

既に『レフト・ビハインド』シリーズのように、一部のアメリカ根本主義者によるセンセーショナルでリタラルな『携挙』解釈が〝受けている〟ようだが、このような逸脱が多くの支持を得る背景には「民族的・世界歴史的終末論」に十分注意を払ってこなかったことがあるのではないか。今世紀の二大戦争や、原爆、そして地球環境破壊、等々「世の終わり」的なカタストロフィーな〝現実〟を前にして、一方で「個人的終末論」サイドの「救い(福音)」と、もう一方で「民族的・世界歴史的終末論」の両方の解釈枠を用いて、地球規模の現在状況・歴史の動きが示す「終末」的展開を(ケアードが指摘するように両方を混同することなく)見ていく必要がある。

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