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第十七章 『時のはざまで』(264-276)

                 小嶋崇

《抜粋》

「この本のある部分、いや、もしかしたら大部分が、読者の方々を少なからずいらだたせたかもしれない。私は、忍耐と活動、労働と休息、遊びと祈りについて語ってきたが、このような多様な面がどのように一つとなっていくのかについては、何のヒントも出してこなかったからだ。いったいどうやったら、それらすべてに関わっていけるのか。私にはその質問に対する答えはない。とにかくハウツー的な答えはない。」(267)

「主が命じられた事を忠実に行うことによって、私たちは主の再臨を待つ。再臨の備えは、父のビジネスに勤勉に励むことだ。そのため、私たちは祈り、御言葉に聞き、御言葉を伝え、子どもを育てる。主が来られるまで生計をしっかり立て、政治に積極的に関わり、その他あらゆる面で責任ある生き方をする。マルティン・ルターは、『あす主が戻られるなら、きょう何をするか』と尋ねられたとき、『木を植える』と言ったことで有名だ。」(272)

「新天新地を聖書的に理解することによって、私たちは自分の働きを過信することから、また逆に落胆することからも守られる。まわりを見渡すと多くの人々が飢えているが、同時に食糧を与える支援機関も手段も増しているのを見ることができる。世界を一つにすることを助けるコミュニケーションツールも発達してきている。大量殺戮兵器を完成させた世紀だが、世界人権宣言が出された世紀でもある。このように、人が繰り返す悪と、世界を保とうとする神の御手の現れと言う正反対の二つの流れが世界を動かしている。

教会を見ても、同じような二つの流れが見える。飢えに苦しむ世界にありながら、一方では体重をいかに減らすかというクリスチャンの本が出版されている。私たちは主の正義を叫ぶが、セルビアや南アフリカでは、キリスト教が不正と抑圧の代名詞となっている。説教者は、『イエス・キリストが全被造物の主である』と講壇から語るが、まるで福音とは無関係のように被造世界を扱っている。」(274)

《主ポイント要約》

本章で著者は「この世で創造的に生きる」聖書的世界観の素描を終える。もう一度この本の狙いが何であったかを振り返りながら、読者に「この世で生きる」ための勘所を再確認させる。一つは「この世で生きる」ための簡単なハウツーはない、ということ。聖書でさえもそのようなハウツーを提示していないこと。もう一つは聖書がもし「この世で生きる」ために何らかの指針を与えているとすれば、それは人がどのように造られ(被造世界の良き管理者として)、どこに向かってその営為を続けていけば良いのか(新天新地)、と言う「この世で生きる」最も基本的方向性を提示していること、である。

『創造(賜物・使命)』と『終末(回復・完成)』という〝時のはざま〟に置かれた人間(クリスチャン)はハウツーではカバーできない多様な可能性・選択肢に囲まれている。それはネガティブな視点から言えば、『罪・堕落(偶像化)』の事実は動機・目的・手段が良ければ解決するほど問題は単純ではない、つまりハウツーに収束しきれない矛盾・不合理・あいまいさ・複雑さに満ちていることを意味する。またポジティブな面から言えば、被造世界の豊かさ、複雑さ、不思議さは『世を治める人間』の限りないポテンシャルを引き出すことを意味する。私たちはそのような二重の意味で豊かで複雑な世界に生きているので、早急な解決や単純化した回答を求める「ハウツー思考」は神の被造世界と私たち人間の使命を矮小化することにもなりかねない。私たちに必要なことは、私たちが直面する諸問題を「ハウツー問題」にすり替えるのではなく、問題の只中でどう生きるかと言う〝態度〟〝スピリット〟に視点を向けることである。どのようなスピリット(信仰的態度)で生きるかが肝心なのである、とマーシャルは説得しているようである。

このような「人生に対する基本的態度」をより重要視する著者の考え方は、彼の人生・世界に対する成熟した理解からくるものであろう。もちろん〝福音派クリスチャン〟と言う(信仰的敬虔から出ているとは言え)少々物事を単純化・短絡化しやすい人々を意識した発言、とも言えるだろうが…。人生に、世界に単純さではなく複雑さを見、確信ではなく留保と熟考を促すのは信仰的ではない、と考えるのは実は未熟さの表れであり、この被造世界の不思議さ豊かさを十分受容できていないのでは、と著者は暗に示唆しているようである。

《インターアクション》

読書随想の終わりに

毎月のペースがいつしか一月おきになり、最後はペースなどなくなってしまった。何とか最終章までやってくることが出来てほっとしている。なるほど「さらさらと読んでしまえる200ページ余の本に一章ずつ読書随想を書くなんて何と言う丁寧さ親切さ…」と思うことはある。しかしやってみると著者の意図を汲み取り、書いている内容を総合的に捉えてまとめ、さらに批判的に評価する、のは時間がかかることである。一章ずつやってきたことで少なくとも著者に対してはそれなりの礼儀は尽くせたと思う。

しかし問題はなぜこんな「丁寧で親切なこと」をしたかだ。それは類書がまだ余り見当たらないからとも言える。本書が扱っているトピックは一書にしては多様である。個々のトピックに対しては内容的にばらつきがある。それはやはり得意不得意があるので仕方がないだろう。むしろ聖書的世界観の視点から色々なトピックを網羅し、しかも一般論ではなく具体的な日常的なレベルで扱っていることに著者の「愛の労苦」を見る思いである。書き終って「全体がどう一つになって行くのか」と言う「生の諸領域を一つに統合する」哲学(のようなもの?)に関しては力不足を認めているようだが…。

著者は仕事柄全世界を行き巡り、そこでのクリスチャンの生き様を観察してきた。迫害や困難の中で活き活きと暮らす第三世界のクリスチャンたち。片やキリスト教文明が斜陽になりつつあるヨーロッパや、西洋の中で言わば特殊なキリスト教文化・教会文化を維持しているように見えるアメリカのクリスチャンたち。その目配りは確かに国際的だが、その比較視点、この本の「聖書的世界観」は16世紀宗教改革を胚胎した「西欧キリスト教文明」の辿ってきた歴史と不可分に思える。そういう意味でこの本が「日本の読者」に与える影響はやはり間接的なものになるのではないだろうか。

『聖俗二元論』の背景として捉えられる『ギリシャ的二元論』の問題も、それを乗り越えようとする聖書的世界観も、「日本と言う状況に置かれたキリスト教」と切り結ぶためには、もう一つ別の連絡口が必要ではないか。それはやはり日本においてはキリスト教がマイノリティーの文化であり、ホスト文化である「和の文化・世間」と言ったものとのねじれや軋轢を考えなければならないからだろう。その関連からも「なぜ聖書的世界観が必要なのか」が問われなければならない。もちろん日本の(プロテスタント)キリスト教が宗教改革以降の西欧キリスト教の強い影響下にあったことは言うまでもないのだが…。

日本にプロテスタント・キリスト教が移入された明治維新期、日本の指導者たちは「和魂洋才」を合言葉に西欧近代の諸制度を移入しようとした。「魂・スピリット」の部分ではなるべくキリスト教を避け、自前のもの(和の心)で推進しようと試みた。しかし、近代的自我、民主主義、市民的自由・権利、等いわゆる近代の諸制度を支える精神部分は好むと好まざるとにかかわらず浸透してきた(と見ていいのではないか…)。これらは淵源としてのキリスト教とはある程度切り離されてはいても、近代の諸制度が日本においても機能不全を迎えている今、制度と精神を批判的に見直すためにキリスト教の背景、キリスト教文明が辿ってきた歴史の理解が必須ではないだろうか。

そう言う訳で、この本は「日本の状況」とは少し距離があるとは言え、狭義でのキリスト教だけでなく、キリスト教文明を背景にした近代の諸制度との関係でも、一読に値する。願わくは随想の中で何度か引用したマックス・ヴェーバーに限らず、広く(キリスト教)信仰・宗教と世界の問題、文明的広がりの問題を視野に入れて再読していただいたら、と思う。

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