« 2009年2月 | トップページ | 2009年7月 »

2009年5月

キリスト教世界観と国際平和 -ここも神の御国なれば-

                    豊川慎(明治学院大学他非常勤講師)

平和を学問すること-平和学とは

ご紹介に与りました豊川慎と申します。「キリスト教世界観ネットワーク」については以前から存じていましたが、今日は初めて参加させていただき、こうして皆様とともに時間を過ごせますこと楽しみにしておりました。私が頂いております時間は50分間ですので早速、本題の方に入っていきたいと思います。

本日の講演題を「キリスト教世界観と国際平和」と致しました。「キリスト教世界観」も「国際平和」もどちらも非常に大きな主題ですので十分にお話しすることはできませんが、問題提起ということでお聞きいただければ幸いです。

さて、ここに集っておられます皆様は「平和」ということでどのようなイメージをお抱きになるでしょうか。青山学院女子短期大学で「キリスト教と平和」の講義を担当させていただいているのですが、授業の最初に、平和ということで思い浮かぶことは何でしょうかとの質問に対して、私を気遣ってくれたのかどうかは分かりませんが、80人ほどの受講生のうち一人の方が「キリスト教」と答えてくれました。キリスト者である私たちにとって、平和といえば、やはり「平和の君」(prince of peace)であるイエス・キリストを一番に想い起すでしょうし、旧約聖書の「シャローム」という言葉が浮かんでくることと思います。

この「平和」ということを学問的に考察する分野として「平和学」というものがあります。キリスト教世界観から「平和」を考える際に、まず最初にこの「平和学」という分野が何を問題としているかを少し見ておきたいと思います。なぜなら、キリスト教の側からも「平和学」に積極的に寄与すべきだと考えますし、「平和学」が提起している課題にキリスト教の側も答えていかなければならないと思うからです。

「平和学」という分野が新たな学際的分野として誕生したのは1950年代のことでした。二つの世界大戦が終わり、世界中の人々みながようやく平和が訪れると思っていた矢先に、東西の冷戦対立や核の時代に入り、「平和」に対する思いが強められたことも平和学誕生の一因に挙げることができます。国際関係論、政治学、経済学、社会学などの従来の社会科学の境界線を越えて、「平和」という価値を追求し、暴力なき世界を目指し、暴力の連鎖を生み出している構造的な歪みを矯正すること、これらが平和学の広義の目標となりました。

従来、平和とは戦争のない状態と考えられて来ました。戦争と平和という構図は、「平和を欲すれば戦争に備えよ」(Si vis pacem, para bellum)という古代ローマの格言にも見ることができます。そのような二項対立的な考え方に異議を唱えたのが、インドのS.ダスグプタやノルウェーのヨハン・ガルトゥングたちでした。ダスグプタは平和の対義語は「戦争」ではなく、「非平和」(peacelessness)であると主張し、ガルトゥングは「平和」とは「暴力の不在」であると言いました。ガルトゥングは平和の対義語として戦争ではなく「暴力」と置き換え、この暴力にも「直接的暴力」と「構造的暴力」があるのだと主張したことは、平和学という分野の進展にとって非常に重要なことでした。それゆえに、ガルトゥングは平和学の父と称されることもあります。ガルトゥングは「直接的暴力」という概念によって、戦争、武力紛争、テロリズム、ホロコースト、「民族浄化」といったまさに人間に「直接的」に危害を加える暴力行為を指し示しました。他方、彼は「構造的暴力」という概念を新たに導入し、貧困、経済格差(経済構造の不公正、南北問題)、差別(人種、ジェンダー、宗教等)、環境破壊、人権侵害などの社会的に構造化された暴力というものに注目しました。例えば、次のように述べています。

「ある人の身体的あるいは精神的な自己実現の現状が潜在的な実現可能性以下に抑えられているとき、そこには暴力が存在する。暴力とは、潜在的実現性と現実、あるいは、本来達成され得たはずのものと現実の状態との格差の原因と定義される」(『構造的暴力と平和』中央大学出版部、1991年、5‐6頁)。

少しわかりにくいかもしれませんが、あえて簡単に言ってしまうと、例えば、日本人の平均的な寿命が70歳後半だと仮定し、それに対してアフリカ諸国などでは、本来は同じ人間ですから同じぐらいの平均寿命を生きられるはずなのに、生活環境の不備、飲み水の不足、福祉や医療の不十分さなどのために50歳代が平均寿命としますとここには歴然とした「構造的暴力」があるということになります。つまり、戦争という「直接的暴力」がなくても、「平和」とは言えない状態があり、「構造的暴力」にさらされている人々が多くいるという主張です。これによって、平和学が取り組むべき課題は人間の生のあらゆる領域といってもいいほどの広がりを見せました。

では日本はどうでしょうか。日本は「平和」であると言えるでしょうか。確かに、「直接的暴力」という観点からみれば、他国に比べ、日本は非常に「平和」な国と言えます。しかし、ガルトゥングの言う「構造的暴力」を踏まえますと、日本における構造的暴力として被差別部落(同和問題)、沖縄、アイヌ、在日、経済格差などなど多くの課題があることに気づくわけです。特に今日の世界的な景気の悪化に伴う経済格差の問題は深刻です。「グローバリゼーション」をどう評価するかということにも関連するわけですが、一国の、いや一部の人々の私利私欲が、一見するとまったく関係のないと思われる最貧国の人々の暮らしに結果的に大きな影響を及ぼしていることを私たちはニュースなどで日々知るわけです。こうした中、では私たちキリスト者は「国際平和」ということに関して、世界の社会的、政治的、経済的「構造的暴力」をどのようにキリスト教世界観の観点から考えるべきなのでしょうか。

キリスト教世界観から考える平和

キリスト教世界観の根本的な捉え方である「創造-堕落-贖罪」がやはりこの問題を考える際に重要であると思います。個人的罪悪(individual sin/evil)と同時に、社会に構造化された「社会的罪悪」(societal sin/evil)をもキリスト者として考えていかなければなりません(1)。それが「被造世界の回復」(ウォルタース)ということとも関連するわけです。イエス・キリストによる贖いは人間と神との和解、つまり破れた関係の回復を意味します。パウロが「実に、キリストは私たちの平和であります」(エフェソ2:14)と述べていますが、神と人との和解から人と人との和解、そして「構造的暴力」としての社会的罪の是正へと同心円的に平和へのプロセスを考えることができるのではないでしょうか。イエスの生涯と教えは、グローバリゼーションや経済、また貧困の問題に対しても根本的な点での解決策を示唆していることを、アブラハム・カイパー(2)やA.D.リンゼイ(3)、またボブ・ハウツワールト(4)などの著作から学ぶことができます。

旧約聖書のヘブライ語の「シャローム」が日本語には「平和」と訳されます。日本語の平和はシャロームが本来持っている包括的な意味合いを狭めてしまうということがよく言われます。シャロームという語は広い意味合いを持つ言葉で、それが用いられる文脈によって色々な意味合いを持ちますけれども、本来的には「欠けのないこと」(wholeness)また「完全であること」(completeness)などを意味します。ある旧約聖書学者は聖書で使われるシャロームには三つの基本的な側面があるといっています。一つは、物質的、肉体的な状況や環境に関して欠けのないこと。二つ目は社会的な関係、人間同士また神との完全な関係に関わっています。シャロームの三つ目の側面は道徳的あるいは倫理的側面で、人に対しては正直、神に対しては罪や誤りのない潔白さを意味します。これらの意味において欠けのないこと完全であることを神は人に望まれているというわけです。

シャロームは「契約」や「正義」といった神学的に重要な概念とともに理解されるべきものですが、ここでは細かい議論は省略いたします。重要なことは、ここでもやはりギリシャ語のエイレーネーと同じく、ヘブル語のシャロームも神との関係において「欠けのないこと」「完全であること」が言われていることです。神との包括的で全人的な完全な関係においてシャロームという言葉が平和の真の意味として捉えられるべきなのです。

21世紀の平和の神学の課題-キリスト教世界観に生きること

今日のグローバル時代において、「宗教」は時に暴力と憎しみの連鎖の原因とも言われてきました。キリスト教文化とイスラム文化の対立、キリスト教原理主義やイスラム原理主義の問題などなど(5)。20世紀は「戦争の世紀」と言われましたが、21世紀において、キリスト教は暴力と憎しみの連鎖を断ち切り、愛と和解を特徴とする平和と共生の文化を作り出す原動力となることができるのでしょうか。キリスト教の負の歴史をも直視しつつ、「平和をつくるものは幸いである」とイエス・キリストが言われたその言葉の意味を再考する必要があるのではないでしょうか。以下、いくつかの課題を提示して共に考えてみたいと思います。

「平和」は非常に広義の概念で、悪く言えば漠然とした概念にもなってしまいがちです。そこで「平和」を構成する基本的要素を具体的に考えれば、豊かさ、秩序、安全、正義、公正、自由、平等、デモクラシー、健康、福祉の充実、文化的生活、人権などが挙げられるでしょう。特に、平和とは人間の権利に関する事柄であり、人権の援護が平和の概念と密接に関連するという考え方は(6)、人間をトータルに考えるキリスト教人間観にとっても重要です。日本国憲法はその前文において「平和のうちに生存する権利」を認め、25条では「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」として生存権を規定しています。これは社会的、経済的弱者が人間らしい生存を享受できるように国家に積極的な配慮を求める権利でもあります。人間らしく生きる権利とは何なのか、平和に生きる権利とは具体的には何か、「すべて国民」という規定の「国民」から排除される者たちの権利はどうなるのか、こういった問いが経済の悪化に伴う雇用問題などが深刻な今日ほど問われている時はないかもしれません。

平和をつくり出す主体としては、個々のキリスト者、教会、キリスト教の教育機関(特に大学)、そしてキリスト教系NGOsやNPOsなど多様であり、それぞれの固有の役割に応じた関わり方があると思います。特に、大学におけるキリスト教教育の一端に関わらせていただいている者として、私はキリスト教教育に基づく平和教育のあり方を模索しています。例えば、明治学院大学で担当させていただいているキリスト教関連の授業では、秋学期に「キリスト教と現代-21世紀の課題としての平和と人権」と題して講義しているのですが、授業を通じて、この主題に対する学生の問題意識が非常に高いことがうかがえます。アウグスティヌスやトマス・アクィナスにおける「正しい戦争」(justum bellum)の思想、エラスムスの『平和の訴え』などキリスト教思想史における戦争と平和の問題から、明治学院大学としての戦争責任の姿勢に関する問題や天皇の大嘗祭などに関連する学長声明、戦争罪責や赦し、和解といった問題などをともに考えることで、キリスト教世界観に基づく平和創出の道を示そうと試みています。中でも、日本におけるキリスト教教育に基づく平和の教育思想を考える際に、恵泉女学園の創設者である河井道の教育思想が今日とても意義深いものであると考えています(7)。本日の講演題の副題を「ここも神の御国なれば」としましたが、これは河井道の愛唱歌である賛美歌90番からとったものです。

河井は1947年制定の教育基本法の制定にかかわったキリスト者の教育家でした。「旧教育基本法」前文には「真理と平和を希求する人間の育成」が期され、それが「根本には教育の力にまつべきもの」であることが明記されていました。平和を希求する人格教育には待つ力、忍耐力が要求されるわけですが、この点に関連して河井の晩年の最後のメッセージである「種まきの話」をご紹介したいと思います。河井は病床にあって次のように語りました。

「最後に今わたしの部屋にかかっている二つの絵についてお話しいたしましょう。これは富士見町教会のSS(日曜学校)の二年生がかいた種まきの絵です。一つは小さな男の子が、ポケットより手を出して種をまこうとしている絵で、他の一つは女の子がすでに大きくなった木のかげで小さな栗のような種を植木鉢に入れている絵です。それを見て私は思うのです。ああそうだ、種まきはいつでもしなければならない。もう木がのびたから種まきはいらぬということはないのです。・・・かくて私たちは年々たえず成長し、神の与え給うた種をまき、神の仕事を経験しなくてはなりません。この際、種をまく者、水をそそぐ者、草をとる者は誇るところがありません。育て給うのは神であります。お互いの立場にあって、種の成長のお手伝いをしたいものです。神と共に苦しむ者は、よろこびをも共にかりとることが出来るとは、なんと楽しい人生ではありませんか。皆様が共に祈り、犠牲を捧げ、神の与え給うた種の成長を、育てることに協力して下さることを心より思い、病室にて心より喜んでおります」(8)。

河井は平和を創りだすという熱き思いとその希望の具現をこのように教育に託し続けました。河井は「国際平和」の重要性を強調しましたが、今日の世界情勢を見ますと、河井の平和思想の今日的意義が改めて評価されるべきであることが分かります。
もう時間がありませんので、最後に「アッシジのフランチェスコ(1182-1226)の祈り」を紹介して私の話を終りたいと思います。私たちキリスト者が平和を真摯に祈り求める時、それは一番の祈りのモデルではないかと考えるからです。

「主よ、私をあなたの平和の道具としてください。
憎しみのあるところに、愛の種をまき、
危害のあるところに、赦しを、
疑いのあるところに、信仰を
絶望のあるところに、希望を
悲しみのあるところに、喜びを
暗黒のあるところに、光をもたらすものにして下さい」

私たち一人一人がどれほどこのような祈りをもって「ここも神の御国なれば」と信じ、キリスト者として歩んでいるのか、キリスト教世界観に生きることの喜びと恵みに感謝しつつ、その「管理責任」(stewardship)の内実が神の御前で今問われていると思うのです。ご静聴ありがとうございました。一言祈りをもって終わりたいと思います。

(本稿は2009年度「キリスト教世界観ネットワーク」の集いにおける講演を文書化したものであるが、当日は完全原稿の読み上げではなく、配布したレジメをもとに話をしたので、講演時に話したものとやや表現において異なるものの内容においてはほぼ同一である。
講演する機会を与えてくださった島先克臣先生にこの場を借りて感謝申し上げたい。)

                 文末脚注
(1) 私はカナダ留学中に、「社会的罪」(societal evil)という概念を哲学的にキリスト教の視点から考える重要さをランバート・ザイダーバート教授(Prof. Lambert Zuidervaart, Institute for Christian Stiduies, Toronto)から教わった。教授はフランクフルト学派、特にアドルノの専門家で、現在、北米を代表するキリスト教哲学者の一人である。
(2) Abraham Kuyper, The Problem of Poverty (ed.by) James Skillen (Baker Books, 1991)
(3) A.D. リンゼイ(豊川慎訳)『キリスト教と経済学』(聖学院大学出版会、2009年刊行予定)[原題はA.D. Lindsay, Christianity and Economics (The Macmillan, 1934)]
(4) Bob Goudzwaard, Globalization and The Kingdom of God (Baker Books, 2001).
(5) 今日のファンダメンタリズムの問題を考える際に次のものを今後参照されたい。ピーター・フフ(藤原淳賀・豊川慎訳)『ファンダメンタリズムとは何か』(日本キリスト教団出版局、2009年刊行予定)[原題はPeter A. Huff, What Are They Saying About Fundamentalism? (Paulist Press, 2008)]
(6) この点に関しては、最上俊樹『いま平和とは-人権と人道をめぐる9話』(岩波新書、2006年)を参照。
(7) 河井道のキリスト教教育思想に関しては、拙稿「河井道-平和を希求する人格の教育」『真理の力-南原繁と戦後教育改革』(tobe出版、2009年)を参照されたい。
(8) 河井道『『恵泉』巻頭言集』(恵泉女学園、1999年)所収、451頁

| | コメント (0)

« 2009年2月 | トップページ | 2009年7月 »