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2010年3月

講演、論文

今までの講演や論文を紹介しています。

第八回 2012年の集い

  講演題:  原発への神学的アプローチ
   
 
   講師:   山川 暁 様
             単立鶴川キリスト教会 信徒伝道師 山川 暁

第七回 2011年の集い

  講演題: N.T.ライトの歴史的アプローチ 

    講師:   
小嶋崇(こじま・たかし)先生
            巣鴨聖泉キリスト教会牧師 

第六回 2010年の集い

  講演題: 主婦として、教員として

    講師:   
岩田三枝子(いわた・みえこ)先生
            東京基督教大学神学部専任講師

第五回 2009年の集い

  講演題: キリスト教世界観と国際平和-こ こも神の御国なれば-

    講師:   豊川 慎(とよかわ・しん)先生

           明治学院大学非常勤講師

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キリスト教世界観的主婦の暮らし方

 

                                            岩田三枝子

1)キリスト教世界観との出会い

私のキリスト教世界観との出会いは、そのものと出会った時よりも、疑問を抱いたときからはじまります。私はクリスチャンホームに育ち、中学生の時に洗礼を受けました。

高校生になり、卒業後の進路として、私はどういう進路に進もうかと考える時期がきました。まずは、自分がやりたい事を考えてみました。その頃、図書館が大好きでそんな私は、大好きな本に一日中囲まれて過ごす事のできる図書館司書の仕事にあこがれました。また、その頃の私は観葉植物が大好きで、観葉植物に埋めつくされたジャングルのような部屋で過ごしていましたので、公園整備だとか、観葉植物や花を取り扱う仕事にもあこがれました。

しかし、自分の好きなことやしたい事は、年月がたてば変化してしまうかもしれません。一生涯変わることのないもの、それは、自分がクリスチャンとして生きるということだと思いました。そして、生涯の土台となる聖書の学びができる全寮制の大学が千葉に新しくできたという話を聞き、私は、その学校での学びを心待ちにするようになりました。その学校はやがて私の母校となり、そして今の勤務校ともなりました。

このようにして、私は自分の志望校を決めたわけですが、教会員の方々からの反応に私は疑問を抱くことがありました。東京基督教大学という、4年生の神学部だけの大学は、牧師だけを養成する学校ではありません。神学部ですので、もちろん聖書やキリスト教史関連の科目が重点的に学ぶ事が出来ますが、それは、一人のクリスチャンとして、一人の人間として、学び、成長し、やがて各自の働き、ある人は牧師かもしれない。ある人は、会社員かもしれない。ある人は主婦かもしれない。そういったそれぞれの道に進んでいくための土台作りの学校だと私は思っていました。ところが、「神学部に行くのね。じゃあ、卒業後は伝道師か宣教師ね」という反応を受け、もやもやするものが残りました。私は生涯の土台を築きたいから神学部で学ぼうと思っているのに、その後の働きが「伝道師」か「宣教師」に限定されるのは納得できなかったのです。しかし、高校生の私は、ふさわしい応答もできないままに、大学に進みました。

さて、私は東京基督教大学で学びを始めました。同世代とのクリスチャンたちとの寮生活は本当に楽しく、充実していました。そんな私には気にかかっている事がありました。それは、「父の悩み」です。私の父は、大学の浪人時代に教会に通い始め、クリスチャンになりました。会社員など経て、牧師になりたいと思い、私が生まれるより前ですが、神学校に少し在籍したこともありました。しかし、その後、様々な事情から神学校は退学し、家業のせんべい屋を担う事となりました。しかし、それは父にとっては仕方なくたどりついた結果であり、本望ではなく、常に、「クリスチャンとしての、自分のもっとも良い生き方は、牧師になる事だ」と思い続けていたようでした。その願いの延長なのか、近くの神学校に聴講に出かける事もありました。父の思い吹っ切る事の出来ない悩みを幼いころから見続けていた私には、ここでもなにかもやもやとした思いがありました。「牧師になる事が一流クリスチャンの生き方なのだろうか」というもやもやです。しかし、その頃の私は、やはりふさわしい応答をすることができないままに過ごしていました。

そのような私のもやもやに変化が訪れたのは、大学2年生の時です。稲垣久和先生の「キリスト教哲学概論」という科目が始まりました。

先生は、クラスの最初に、「狭義の神学」と「広義の神学」という言葉を用いられました。それこそ、キリスト教世界観そのものを表していていると言ってよい言葉だと思います。私の理解ですが、狭義の神学とは、神学部の授業でいえば、聖書学や組織神学などの科目にあたる部分です。そして、広義の神学とは、神様の創造された世界全体についての学び、同じく神学部の授業でいえば、体育であり、心理学であり、言語学であり、哲学であり、歴史学であり、音楽の事でした。神様の支配されている世界全体を学び、そのことによってさらに神理解、自己理解が深まっていくのだということが、私の中で、高校生時代に感じた違和感や、父の悩みと結びついたのです。私にとっては、それは、解決といってもよいものでした。この理解を聴いたときに、感動と安堵のあまり、授業中にも関わらず、目がしらが熱くなりました。このようにして、私はキリスト教世界観と出会いました。

2)キリスト教世界観に生きる人たちとの出会い

東京基督教大学を卒業し、さらに聖書の学びを深めてみたいと同じ敷地内の東京基督神学校に進みました。その後、北米のミシガン州にあるカルバン神学校で2年間、そして、カナダのトロントにあるキリスト教学研究所で1年間学ぶ機会が与えられました。

それぞれに、学びそのものよりも、むしろ、キリスト教世界観に生きている人たちとの交流に刺激を受けました。たとえば、カルバン神学校で出会った、隣のカルバン大学の学生は「卒業後は会計士になりたい。そして、会計士として神様の栄光を現すの」とさりげなく話します。同じようにして、小学校の教員を目指している学生も、コンピューターサイエンスの学びを深めたい学生も、自分の働く分野で神様の栄光を表したい、と話しています。ある学生は、「僕のおじいちゃんは、郵便配達だった。その仕事を通して神様の栄光を現した」という内容の事を話していました。どの分野であっても、自分の置かれた場所で、自分の働きを通して、神様の世界における栄光を現していくというキリスト教世界観の生き方が浸透している様子を目にしました。

それは、トロントのキリスト教学研究所でも同じでした。大学院ですので、仕事をしながら学びに通っている方々も多くいたのですが、ピアノ教師の人、電気工事士の人、監獄で伝道活動をしている舞台俳優夫妻、牧師、主婦などさまざまなクラスメートがいました。それぞれに、自分の働きを通してどのように神様の栄光を表す生き方ができるか、と考えていました。

そのような出会いの中から、どのような働きであっても、働きに「栄光の優劣」はなく、それぞれの栄光の表し方があるのだ、確信して、日本に帰国しました。

3)キリスト教世界観的会社員

帰国後私は、東京都内にある起業したばかりの化学品輸出会社で、派遣社員として働き始めました。

そのころ、幾人かの方々からの言葉に気になるものがありました。「神学校を卒業して、派遣社員をしているのはもったいない。せめて、教会スタッフならいいけど」というようなものでした。もちろん、私が派遣社員をしているのは、生活をするためでもあるのですが、そこでのキリスト教世界観らしい働きの意義を私なりに見つけていました。一個人の働きとして、職場に於いて、職場の方々に対しても、取引先の方々に対しても、誠実に忠実に働く事。そして、国内の化学品を仕入れ、それを韓国や中国、台湾などに輸出するという会社の働きとしては、輸出業という分野を通しても、それらの国々との友好が図られ、深められていくことは、主の栄光が表れる事だと確信しながら働いていました。

私は、「伝道するために職場に使わされている」というような言葉を聴いた事があります。でも、誤解を恐れずに言われていただくならば、伝道するために職場で働いているという事には疑問を感じています。職場の方を教会に誘ったり、4つの法則で福音を語るという事はそれもまた立派な行為だとは思うのですが、それ以上に、職場では、まず第一義的には神様がその分野に与えられた職を全うするために働くのであり、その仕事ぶりや人柄こそが神様の創造された世界を喜び、隣人を愛し、神様の栄光を表すことになると私は思っています。これが、私にとってもキリスト教世界観的職業観です。

4)キリスト教世界観的主婦業

9ヶ月後、私は母校で働き始めました。今の私は、職場では教員であり、家庭では妻であり、2歳の男の子の母であり、主婦であり、地域では一市民です。エネルギッシュな子どもとかかわるにはエネルギーが必要ですが、今しか味わえない事として、感謝しています。

ある男性の方が、「最近子供が産まれました。当たり前のように私も親ばかの仲間入りをしました」と話しておられました。私はその言葉が気に入りました。親バカである事は素晴らしい神様からのギフトであり、神の創造の御業の一つだと思います。このような子どもへのわき出る自然な思いを喜び、感謝する事。また、子どもの成長を共にになってくださる親類の方々や保育園の先生、教会の方々への感謝を言い表していく事。これは私にとっての、キリスト教的子育ての一つです。

また、家庭では、神様が私たち家族に与えてくださった住居を楽しみ、お気に入りのカーテンを掛けたり、食物を楽しみ、近所においしいラーメン屋を見つけたりしながら生活を楽しみ、喜び、感謝すること。それは、私にとってのキリスト教世界観的主婦業です。

また、私は地域の一住民です。私は築20年ほどの団地に住んでいます。20年前に植えられた団地の木々が大きく育ち、団地の中を歩いているだけでも、大きな公園を歩いているような風情です。団地ですので、2年に一度ほど、「階段委員」というものが回ってきます。団地の総会に出席したり、定期的なクリーンデーに参加したりします。そういったものに、出来る限り忠実に参加していくことや、小さな当たり前の事ですが、ゴミ出しのルールなどの地域のルールを守り、近隣の方々と挨拶を交わすこと事などは、一人の市民、一人のクリスチャンとして、大げさかもしれませんがこれもまた神様の栄光を表す、キリスト教世界観的地域住民の生き方の一つだと感じています。

また、子どもが生まれてからは、新しく「ママ友」というものができました。私はママ友との交流そのものを楽しみます。知人のクリスチャンの方が開催してくださっている月に一度の「ママと子どもの会」へのお誘いはしますが、私は伝道するために友達になったのではなく、神様が与えられた友情を喜び、感謝するために友達になったからです。それがキリスト教世界観的友情だと感じています。

私が用意した食事を息子が食べ、にっこりとしている息子の笑顔は私を幸せな気持ちにしてくれます。神様もまた、ご自身の子どもたちが神様の創造された世界を喜び、楽しむ姿をよろこんでくださるのではないでしょうか。

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