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2011年5月

N.T.ライトの歴史的アプローチ

 ―歴史の原点に戻って見直すキリスト教信仰

           巣鴨聖泉キリスト教会牧師 小嶋 崇

はじめに
 今回の講演は「N.T.ライトの歴史的アプローチ」についての解説ではなく、筆者がライトのアプローチを咀嚼した上で考えさせられた「現代大衆的福音理解」に対する問題提起、検証である。
 またここに書き起こした文章は当日用意した資料プリントに多少修正と補足説明を加えたものである。

 

1. 現代福音派の「福音」「救い」理解はどんなものか。

 参照のためにある教会学校の教材作成団体がどのような「救いの提示」をしているかを見てみよう。もちろん対象は子供なのである程度簡略であったり、使用される語彙が限られていたりするが、基本的アウトラインや神学的理解はそれほど違わないのではないかと思う。

私たちは正しい神さまの喜ばれないことをしています。これをと言います。嘘をついたり、けんかしたり、人を憎んだりして、たくさんの罪を犯したので、自分の罪の罰を受けないといけません。…
でも私たちを造られた神さまはあなたや私のことをとっても愛しておられるので、罪の罰から救われる方法を用意されました。それがイエスさまです。
 イエスさまは神さまのひとり子、つまり、神さまです。天国におられましたが、人間となって地球に来てくださいました。…しかし、イエスさまは神さまなので罪は何一つ犯しませんでした。その罪のないイエスさまだけが、あなたや私の罪の罰を代わりに受けることができました

神さまはイエスさまを、私たちを罪の罰から救う救い主として与えてくださったのです。だから、自分に罪があるのが分かって、イエスさまがその罪のために死んでくださったことと、よみがえられたことを信じるなら、すべての罪は赦され、天国に行くことのできる永遠のいのちをもらうことができます。聖書には「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」ヨハネ3:36。…イエスさまをあなたの救い主と信じるなら、あなたの罪の罰はすべて赦されて、天国へ行くことができるようになります。…

JCMニュースNo.132004.3「プロジェクトワイルド聖書レッスン:勝ったのは誰? 強調は筆者。)

 

現代福音派にとって「福音を語る」とは、特に大衆的な福音として「福音を語る」とは、「罪の罰から救われる方法を語る」にほぼ等しいと言えるのではないか。


2. このような「(個人的な罪からの)救いの方法」提示に用いられる「神学的説明」を「聖書」と「実際の歴史」に照らしてみよう。以下に挙げる六つのポイントはその歴史性や聖書の叙述との整合性とを検証する上で挙げてみたもので、網羅的なものではないことは言うまでもない。

 

 ①イエスの十字架刑は私たちの受けるべき罪の罰を表しているか。

 ②イエスの死が私たちの受けるべき罪の罰の代償であるとする「刑罰代償死説」は十字架刑を必須とするか。宣教途中で祭司長たちの反感を買い、彼らに殺されたら「救い」は成立しなかったか。

 ③ローマに対する反逆罪として用いられた十字架刑が私たちの贖罪のために必須であったなら、なぜイエスは即「メシヤ宣言」して暴動を起こし、ローマに捉えられて十字架刑にならなかったのか。

 ④十字架の死までの「イエスの生」は、罪を犯さないことだけに意義があったのか。

 ⑤十字架の死だけが救いのために意味があるのなら、「神の国」宣教-病人の癒し、悪霊の追い出し、神の国の教えを説く-の意味は何か。

 ⑥なぜイエスはユダヤ人として生まれる必要があったのか。イスラエル民族の歴史に何の意味があるのか。神の御子は時代・文化に関係なく降臨し一直線に死なれて贖いは完成したのか。

 

上記のような問いかけの下に「現代福音派の大衆的伝道説教、救いの方法提示」を、実際の歴史と福音書の記述とつき合わせてみると、その非歴史性、抽象的な性格が浮き彫りになってくると言えるのではないか。

 

3. 大雑把に言って、「現代福音派の大衆的伝道説教、救いの方法提示」は、十字架贖罪一辺倒になりやすく、復活は言及されたとしても救いの理解全体の中に神学的に統合されていないと言える。しかし歴史的に言って、イエスの復活がなければキリスト教は起こりえなかった。その意味で復活を基点とした福音理解でなければ十字架贖罪の論理は観念的な、非歴史的なものになってしまうと言わざるを得ない。


 当時のユダヤ人にとって十字架にかけられたメシヤは失敗の証左である。イエスの死後、弟子たちのメシヤ運動が持っていた選択肢は、①解散するか、②イエスに変わる別のメシヤ(最も可能性の高いのはイエスの兄弟ヤコブ)を立てるしかなかった、と推論できる。

 イエスの復活は、当時のユダヤ人(弟子たち)が実際に信じることは困難であった。「死者からの復活」はユダヤ人一般の信仰であったが、それは終末的な出来事で、神にある義人が一斉に復活して『来るべき世のいのち』に与るというものであった。福音書のイエスの復活描写は、その意味で弟子たちの戸惑いや不信仰の姿をそのままにしている。又十字架の出来事に比較して、復活記事には旧約聖書預言成就の言及や暗示が殆ど見当たらない。

 使徒たちのメシヤ信仰は復活の事実から遡って(旧約)聖書の記述に照合して「イエス(預言者メシヤ)の言動/行動」を検証した結果辿り得たもの、と捉えられる。

※以上三つの点についてはルカ24章の記述を参照せよ。


 

4. 改めて問われる「福音」。「福音を語る」とは何か。使徒的福音説教(ケーリュグマ)を検証する。

・Ⅰコリント15章…復活顕現と目撃者証言の中核性

 使徒の働き2章…イエスの死は「刑罰代償死」としてではなく、ユダヤ人指導者の罪として糾弾されている。

 福音書、「最後の晩餐」箇所…イエスの死の意義は「新しい契約(新しい『出エジプト』的出来事)」の基礎であり、それを発効させるもの(過越しの犠牲)として位置づけられている。

 福音書におけるイエスの十字架刑の記述には「刑罰代償死説」のような説明はなされていない。

 ガラテヤ書簡…十字架はイスラエルを代表するメシヤが被った「契約の呪い」(3:13、比、申命記28章)であり、「真の捕囚からの帰還」(1:4、比、申命記30章)である。


「現代福音派の大衆的伝道説教、救いの方法提示」は使徒的福音の視点から見ると、福音の提示ではなくその結果得られる恩恵の実を表している。福音とは「イエスはメシヤ(真のユダヤ人の王)またすべてのものの主」であることを宣言することである。この福音の宣言を聞いて信じ従う者が「神の民」に加えられ(義認)、救いを受けるのである。

 

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