講演、論文

原発への神学的アプローチ

 -小説家の想像力とキリスト者の先見性ー  

  単立鶴川キリスト教会 信徒伝道師 山川 暁

 はじめに

  3.11から1年が経とうとしています。昨年、3.11に直面させられた私は、その夏に、私が住んでいる多摩ニュータウンで発行されている同人誌『手の家』に『原発への神学的考察―井上光晴の原発小説「西海原子発電所」と「輸送」を通して』というまことに拙い論考を寄稿させてもらいました。その同人誌『手の家』を島先さんにも読んでいただきました。そのことが縁となり、今回、島先さんから、CNW(キリスト教世界観ネットワーク)の集いで、「文学を通して見た、原発問題」をテーマに話すようにと声をかけていただいた次第です。

1、小説家の想像力

 「原発への神学的アプローチー小説家の想像力とキリスト者の先見性―」というタイトルを付けさせていただきました。しかし、基本的には『手の家』に書いた論考を下敷きに話させていただきます。ですから、ここでいう小説家とは井上光晴であることをご理解ください。

 『手の家』を読んでいただいた方々から、色々感想や批判を寄せていただきました。その中に「神学的考察」と唱っているが、肝心のそこが十分に書けていない、という厳しい批判もありました。それで、今日は、その批判にも応えられるように話が出来ればと、願っています。

 先ず小説家井上光晴について簡単にお話しさせていただきます。井上光晴は1926年に九州の久留米で生まれています。没したのは1992年で、66歳の生涯でした。井上光晴はガンで亡くなっています。私はこの小説家がガンを宣告され、亡くなるまでの1000日を『生き尽くす人』という本にまとめさせてもらいました。

 井上光晴は小説家として、ユニークな人でした。ひとつその事例を上げれば、彼が1977年に佐世保に「文学伝習所」を開設したことです。幕末に勝 海舟が長崎に海軍伝習所を設置したことにヒントを得ての事でありました。井上光晴はこの「文学伝習所」をやがて全国各地に開設してゆきました。最盛期には北海道から九州まで、全国十か所以上に「文学伝習所」が開設されました。そして、私が暮らす多摩ニュータウンにも「多摩文学伝習所」が開設されました。『手の家』は多摩文学伝習所の伝習生によって創刊された同人誌です。私自身は同人ではありませんが、昨年、原稿を求められ、寄稿したした次第です。私には、全国各地に「文学伝習所」をつくり、手弁当で文学を「伝習」しようとした井上光晴の行為が、福音を宣教する宣教師の姿に重なって見えました。

 『原爆文学論』という本があります。1993年に出た本ですが、著者は文芸評論家の黒古一夫です。黒古さんは、この本の冒頭でこう述べています。

 核状況下の危機というのは、いつ起きてもおかしくはない、人類を死滅に導く熱核戦争だけを意味するものではない。数えきれないだけの核兵器と、“平和利用”の美名のもとで私たちの日常生活の深部にまで浸透した原子力発電に囲まれて、私たちの人間としての在り様が、「危機管理」に訓育され、現状を変革する意志を喪失し、徐々に緩慢なる人類滅亡への道を歩んでいることに無自覚になっている現状、これこそ核状況がつくり出す「危機」と言える。つまり、「核」を頂点とする際限のないエネルギー消費とすさまじいばかりの資本の論理に基づいた技術革新が、「科学万能神話」に支えられて、私たちの「未来」を閉ざしているということである。

そして、井上光晴についてこう述べています。井上光晴ほど一貫して「核」に関心を持ち続け、被爆者体験がないにもかかわらず、それを文学的主題としてきた作家はいないと言えるだろう、と。

 井上光晴が最初に核を、つまり原爆をテーマにして書いた作品は『手の家』と言う短編小説で、この作品は1960年に書かれています。その3年後に、傑作という評価の高い『地の群れ』が書かれています。『手の家』について、黒古さんはこう書いています。

 隠れキリシタンの住んでいた島の「差別」構造と、被爆者差別の現実とがつくり出す差別の重層化を浮き彫りにしたこの短編は、井上光晴の「核」に対する関心がどこにあるのかを、如実に物語っていた。虐げられている人間が、また自分より下の位置に存在することを知って安心する「差別」の袋小路を鋭く突き出すことによって、「自由」を彼方に遠望せんとする井上の世界は、「核」が「自由」の最大の敵対物であることを明らかにするものである、と。

 井上光晴は原爆の持つ物理的破壊力を描くことをせず、原爆が人間の「自由」を奪う「最大の敵対者」として原爆を描いています。原爆が人間の精神を如何に荒廃させるかを描いているのです。また、1982年に書かれた『明日―一九四五年八月八日・長崎』もユニークな原爆小説です。長崎に原爆が投下される前日を描いているからです。

 さて、原発小説ですが、井上光晴が原発をテーマにして最初に書いた作品は1978年に書かれた「プルトニュムの秋」という戯曲仕立の小説です。この作品は、原発労働者の被爆保障問題と原発技術者の不安とを前面に押し出して書かれた作品です。この作品のテーマをさらにあたためて書かれた作品が「西海原子力発電所」です。1986年に書かれています。ところがこの年に、チェリノブイル原発で大きな事故が起きました。そして、さらに2年後に書かれた作品が、核廃棄物の輸送事故によって引き起こされる惨事を描いた「輸送」でした。

 井上光晴は原爆が投下され、破壊された長崎に、原爆投下の3日後にその地に立っています。そこに井上光晴の核に対する問題意識、それは具体的には原爆であり、そこからさらに原発へとつながっていくわけですが、その問題意識の原点があるといっても間違いはないと思います。

 井上光晴は原爆と原発は根っこではつながっている、人間社会にとって極めて危険で、かつ邪悪なものという認識がありました。小説家の中で、井上光晴ほど、原発の「安全性」に疑問を抱いていた人はいなかったと思います。「西海原子力発電所」のモデルともいえる玄海原発を訪れたとき、井上光晴はこう述べています。それまで東海、女川、福島第一、敦賀など「運転開始」のたびにたずねていて、受けた印象をもうひとつ際立たせるものがそこには展開されていた、と。それは過剰なまでの「安全性」への説明であったのです。

原発小説「西海原子力発電所」の構想はここから生み出されたのです。構想では原子炉の爆発によって飛散した放射能が、原発周辺の地域を被う情景を描くものであったようです。しかし、作品を7割ほど書き進めて来た時に、チェルノブイル原発で事故が起こったのです。井上光晴はこう述べています。

 私のペンがまったく動かなくなった理由と原因は理解していただけよう。可能な限りの資料を集め、想像力を振り絞ったあげく、起こり得べき未来の状況として設定した「炉心溶融事故」を、チェルノブイル原発はあっさりと乗り越えてしまったのである、と。

 黒古一夫さんは井上光晴のこのことばを捉えて、こう言っています。文学者(作家)が予言者的側面を持つことの実証を、ここに見ることができる、と。

 チェルノブイル原発事故によって井上光晴の想像力はあっさりと乗り越えられてしまいました。その結果、構想を改めて書かれたのが、原子炉が爆発する代わりに、原発が「核権力」として、原発の設置されている地域を支配する現実を暴く作品となったのです。

 もうひとつの原発小説「輸送」は、原発から出た核廃棄物を輸送するトレーラーが海に転落して、漏れ出した放射能によって、その地域一帯に暮らす民衆の姿を描いた作品です。多くの日本人がほとんど関心を持っていない核廃棄物の運搬事故によっても、原発事故と何ら変わらない惨事が引き起こされることを描いたところに、この作品のユニークさがあります。この作品には3.11によって現実に起きた事実とそっくりな世界が描かれています。まさに小説家井上光晴の想像力が現実を先取りしているのです。これは小説家井上光晴に、小説家としての創造力があったからこそ、この原発小説を生み出すことができたといえます。


2、キリスト者の予見性

 井上光晴は原爆と原発とは根っこでつながっているものと認識していました。とすれば、原発を考える前に、原爆について目を向ける必要があります。

 原爆を開発し、製造したこと、そしてそれを保持し続けることは、果たして主なる神の前に正しいこと、義なることであり、また義なることであったのでしょうか。核問題について考察しようとするとき、キリスト者の思考はここから出発しなくてはならないのではないでしょうか。私はそれを唯物主義者の井上光晴から教えられました。

唯物主義者ではありましたが、小説家としての井上光晴は神について無関心ではありませんでした。だが神を受け入れることが出来ない合理主義者でありました。キリスト者が罪とする「自己中心主義」について、井上光晴はそれを人間のエゴイズムとして、鋭く追及した作家でした。

そして、核の問題を政治体制、政治思想といった人間的側面から捉えようとした作家が井上光晴であったといえます。しかし私たちはキリスト者です。神を抜きにして、核問題を考えることはできません。そして、核問題を考えることは、ある意味で、2000年の教会史が示しているように、戦争に加担し続けてきた教会が、神の前に戦争が正しいことであるか、どうかを考えることにも通じています。これはキリスト者にとっては、たいへん大きな、かつ重要なテーマです。

 結論から言えば、原爆を開発して、製造したことは、神の前に正しいことではなかった、義なることではなかったということであります。

その理由は、ただ一つです。それは主なる神の主権を侵したからです。原爆を開発し、製造したこと、そしてそれを投下したことは、まぎれもなく神の主権を侵した行為です。

 キリスト者に与えられている使命の一つに、預言者的使命と言えるものがあります。それを分かりやすく言えば、キリスト者の先見性といってもよいでしょう。核問題についてキリスト者はどれだけの先見性を持っていたのでしょうか。3.11を体験して、それが現在厳しく問われているように思います。

日本のキリスト者が原発について発言するようになる前から、核問題について、特に原発の危険性を訴え続けてきた核物理学者がいます。高木仁三郎です。高木さんは『チェリノブイル原発事故』でこう述べています。

核技術というものは、いわば天上の技術を地上において手にしたに等しい。私はなんら比喩的な意味でこのことをいっているわけではない。核反応という、天体においてのみ存在し、地上の自然の中には実質上存在しなかった自然現象を、地上で利用することの意味は、比喩が示唆する以上に深刻である。あらゆる生命にとって、放射線は、それに対してまったく防禦の備えのない脅威であり、放射能は生命の営みの原理を攪乱する異物である。

核エネルギーを人間が直接的に解放すること、それは神の主権を侵す行為にほかなりません。高木さんの警告から、キリスト者はその警告が聖書の神を無視している、そのことに気付かなければならなかったのです。つまり、それは太陽の表面で起こっていることを、地上おいて人為的に引き起すことを意味しているからです。そのことはまさに宇宙を支配されている創造主の主権を侵しているのではないでしょうか。

 人間は神が宇宙を支配されていることによって、大きな恩恵を受けています。例えば地球の大気圏あるオゾン層のことを考えてみてください。オゾン層が厚過ぎれば、生命にとって必要な放射線を吸収してします。また、逆にオゾン層が薄すぎれば、生命に危険を与えるだけの放射線を通してしまいます。オゾン層は地上の生命を維持するために、ちょうどよい厚さを保っていてくれているのです。これは宇宙が神の支配下に置かれ、人間に恩恵を与えてくれている証拠の一つです。

 さて、創世記に記されているバベルの塔の物語は広く知られている話です。人間は天にも届く高い塔を建てようとしました。それは人間の名を上げるためでした。その人間の企てを知った神は、こう仰せられました。「彼らがみな、一つの民、ひとつのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼がしようと思うことで、とどめられことはない」、と。(創世記11:6)。

 つまり、人間が企てようとしたことは、人間の手によって、歴史の支配権を神の手から奪い取ってもよいという、実に高慢な企てであったのです。それ故に、神はこの企てを阻止されたのです。

 神の主権を人間が侵そうとした企てを、神は阻止されました。神の主権は決して侵してはならない。バベルの塔の物語からは、そのように読みとることができるのではないでしょうか。ある牧師は、バベルの塔を建てようとした人間について、「神を忘れ、人間の力を誇る生き方が見られる」と語っています。神を忘れ、人間の力を誇ろうとすること、それは神の主権を無視し、その主権を侵すことに通じているのではないでしょうか。

 原爆を開発したことは、神の主権を侵した行為であったと言いました。それに対してこう問われる方がいるかもしれません。何故神は御自身の主権が侵されるのを見過ごされたのか、と。何故バベルの塔を建てるのを阻止されたように、原爆の開発を阻止されなかったのか、と。神が原爆の開発を阻止されなかったその理由は、神が被造物である人間に与えてくれた自由意志にあったと言えると思います。神は人間を神に似せて創造されました。創造された人間は自由意志を持った存在でした。皮肉にも、その自由意志を与えられたことで、アダムとエバは罪を犯すことになったのです。もし、神が人間を機械的に創造されたのであれば、人間にはものごとを自由に選択し、自由に判断する余地はなかったはずです。自由意志を持たない人間は、単なるロボットにすぎません。

神は自由意志を持った人間が御自身と応答することを求めておられます。TCUの稲垣久和先生のことばを引きます。

 神は永遠の生命はおろか、地上の生命をも「滅ぼす」という予言をしておいても、それを何度か変更している。それは人間が神の前に悔い改めをすることによってである。憐れみ深い神は悪人ですら滅びることを喜ばないのである(エゼキエル書33章)。悔い改めて日常的な意味での善を行うかどうかは、その人間の自由意志にかかっている。神はすべてのものごとを専制君主的に決めてはいない。神は創造の法を規範として与え、あるものを自然法として、またあるものを倫理規範として与えているのみである。それに対する人間の側の応答を、神は待っているのである。人間はその宗教的中枢、すなわち心をもって神に応答する。そして心は創造の法を認識しつつ神に応答するのである。(「神の法と科学・技術」)

 神は人間を神ご自身に似せて創造されたと言いました。それもロボットのようではなく、自由意志を持った存在として創造されたのです。それは人間が神と応答するためであったとも言えます。聖書には天地創造の記事がこう記されています。

 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:26~27)。

 「地を従えよ」、「すべての生き物を支配せよ」ということで、キリスト教に対して批判の声が浴びせられることを知っています。聖書のこのことばが自然環境を破壊させているというのです。「支配せよ」という訳にも問題があると思います。私は「支配せよ」というより、「管理せよ」と受け止めています。

 A.E.マクグラスも「科学と宗教」の中で、こう述べています。創造の教理は、エコロジーの敵などではなく、むしろ環境に対する人類の責任の重要さをはっきりと主張するものである、と。そして、こうも述べています。人類は科学技術によって、自然に対して覇権を振い、自ら願う目標にむけて、自然を誘導する能力を獲得したのである、と。

原爆の開発、それは核分裂を人為的に生じさせ、巨大なエネルギーを取り出し、想像を絶する破壊力を与えることです。それは、まさに神から与えられた自然法を無視して、自然に対して覇権を振った行為であったといえるのではないでしょうか。人類が生き、生活を営んでいるこの地球は、偶然に生じたものではありません。それは神の創造のみわざによるものです。神によって創造された地球とは、人類を含むすべての生物が、物質を構成する原子核が安定した環境に置かれているところなのです。私たちは、そのことに目を向け、神に敬意を表さなければならいのです。

 しかし、原爆の開発に手を貸した核物理学者と、それを指示した政治家には、預言者エレミヤのことばが届くことはなかったようです。

 

 主はこう仰せられる。

 知恵のある者は自分の知恵を誇るな。

 つわものは自分の強さを誇るな。

 富む者は自分の富みを誇るな。

 誇る者はただ、これを誇れ。

 悟りを得て、わたしを知っていることを。

 わたしは主であって、

 地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。-主の御告げ。-(エレミヤ9:13~24)

 原爆の開発に関わった核物理学者は、自分の知識だけを誇っていたのではないでしょうか。地球を創造された神は、アメリカ政府が核物理学者を動員して原爆を開発、製造し、それを広島と長崎に投下したことに対して、また、原爆の開発に手を貸した核物理学者に対して、怒り、また悲しまれたにちがいない。私はそう思います。

 東京新聞の夕刊に「大波小波」という名物コラム欄があります。昨年の11月25日のこのコラム欄に「原発推進の舞台裏」と題したコラム記事が掲載されました。それをご紹介させていただきます。

 日本の原子力関係予算が各国中でも突出していると、政策仕分けで槍玉に挙がった。原発事故半年を機に特集した米週刊誌「ニューヨーカ―」(10月17日号)の「福島からの手紙 放射性降下物」を読むと、その大盤振る舞いに合点がいく。日本人の核アレルギーを取り除くため、米政府が日本に原発推進をたき付けていたというのである。

 東西冷戦の激化の1950年代、アイゼンハワー大統領は核への反発から日本が米国離れするのではと思い悩んだ。広島、長崎の悲劇に加えて、54年3月、マグロ漁船「第5福竜丸」が水爆実験による死の灰浴び、反米世論が盛り上がったときのことである。

 大統領は国家安全保障会議で「日本からは鼻持ちならない戦争屋と見られている」とぐちった。国務長官代理は「日本人は核兵器に病的に敏感だ。原発をつくらせて原子力時代に誘い込むのがベストの対応です」と応じたと、秘密メモを基に報じている。

 これを受けて、大統領は国連総会で原子力の平和利用を宣言。日本に対し、政界では曽根康弘、民間では読売新聞者主・正力松太郎に狙いを定め、CIA(中央情報部)も加わって原発の技術、資金援助を進めたという。国際政治の世界は油断も隙もない。

 コラム記事は原発に関心を持っている人にとっては、さほど目新たしい内容のものではないかもしれません。原発に関心を持っている人の多くは、これは旧知の事実であると思いますから。

 さて、コラムが書いているように、原子力の平和利用を最初に声を出して言ったのはアイゼンハワーでした。1953年12月に、国連総会で提唱したのが最初でした。だが、アメリカは翌年の3月、アイゼンハワーの提唱がうそであったかのように、南太平洋のビキニ環礁で水爆の実験を実施しています。この実験によって、日本のマグロ漁船第5福竜丸が、いわゆる死の灰を浴びています。アイゼンハワーの前年の発言が、いかに欺瞞に満ちていたかが分かります。

 だが、コラム記事が指摘しているように、アイゼンハワーの発言が引き金となって、日本における原発の導入の道が開かれて行ったことは事実です。それは、日本人が原子力は平和利用できるのだということを信じていくことに通じていくことになります。原爆は悪だが、原発は善であるという意識を植え付けられていくのです。井上光晴はこの欺瞞性に気付いていました。しかし、私たちキリスト者はどうでしたでしょぅか。

 日本人を含めて、世界各国の著名な神学者も原爆が広島と長崎に投下されるまで、原爆が開発され、製造されていたことを知らなかったようです。原爆が投下されて、初めて原爆の存在を知ったわけです。原爆の投下を知った、欧米の神学者や牧師から、原爆投下を非難する声が上がりました。しかし、原爆を開発したことに対しての非難の声は上がったのでしょうか。

 例えば、ラインホールド・ニーバーです。彼はトルーマン大統領に原爆を投下した批判の声を上げています。しかし、ニーバーが原爆を開発したことが誤りであったと語ったことはなかったようです。逆に、ニーバーは原爆を必要悪として認めるようになります。

 ニーバーとは違って、原爆を含む核兵器のすべてに反対を表明して来た神学者のひとりがJ・ストットです。J・ストットは、まだ世界が冷戦下におかれているときでしたが、今日の教会にはキリスト教徒の行動意欲をそぐ二つの傾向があると指摘しています。一つは、核の恐ろしさを矮小化する傾向、つまり、エスカレートする核の恐怖が均衡状態をつくっていることに慣れて、核の使用を不法とする怒りの感覚を失っていく傾向、二つ目は、キリスト教徒が将来に悲観的になりすぎ、何をしても始まらないという気分をもつ傾向である、と。(『地には平和を』)。

 しかし、このストットも原爆を製造したこと、また製造することについては何も発言してこなかったのではないかと思います。原爆を開発し、製造したことの誤りを認めず、ただ原爆の廃止、核兵器の禁止を語ること、これは神の目にどう映るのでしょうか。

 井上光晴は原爆が原発と同根であることを見抜いていました。核分裂を引き起こして、エネルギーを生じさせることにおいて、原理においては、両者には違いはないからです。従って、原爆は悪で、原発は善という図式は成り立たないと思います。原爆も原発も核分裂を人為的に起こすことでは何ら変わりはないからです。

原子力を「文明」と呼ぶとしても、それを「文明」たらしめたものは原爆の開発にあったといえます。そして、原爆の管理と維持の延長線上に、原子力の平和利用を唱えて、原発が登場してきたにすぎないのではないでしょうか。

 原子力という文明を、人間が自然界を神のみこころにかなった形で、正しく管理するという使命に照らし出したとき、人間が誤りを犯したことが示されると思います。原子力文明をつくり出してしまったことは、主なる神のみこころに反することであったと認めざるを得ないからです。原爆、そしてその延長線上にある原発は、神から課せられた使命を大きく逸脱していることは明白ではないでしょうか。オランダ生まれの神学者アルバート・M・ウォルタースは、神の主権の下に置かれている歴史についてこう述べています。

 それ故、歴史の意味は神のみわざを人間が管理するという使命に照らして理解されなければなりません。創造のみわざの展開の諸段階は人間文明の諸段階に対応しています。その意味することは何かと言えば、歴史的過程を通して創造のみわざが開示されてゆくということです。もしこのことを理解しないならば、もし私たちが学校、会社企業等の諸制度や都市化、マス・メディア等の進展をもたらした歴史的分化過程を、基本的に創造のみわざの現実と人類によるその責任的管理の範囲外にあるものとして考えてしまうならば、私たちはこのような事柄、また、同様の他の事柄を、この世における神の目的に根本的に敵対するものとみなすことになりましょうし、本質的に「世俗的なもの」という印を押してしまうことになるでしょう。この場合、「世俗的」とは、宗教的に中立と考える場合もありますし、宗教についてははっきりと否定的である場合もあります。私たちの歴史に対する態度は、ポスト・インダストリアルと呼ばれる西欧の現段階における発展を否応なしに受け入れなければならぬとしても、根本的に反動的となります。

 しかしながら、もし私たちが人間の歴史や文化・社会の発展が創造のみわざ及びその展開と軌を一にするものであり、それらが罪による逸脱にもかかわらず、宇宙に対する神の御計画の外にあるものではなく、むしろ、はじめからその中に組み込まれていたものであり、これまで知らされていなかった設計図に盛り込まれていたものであることを知るならば、私たちは政治や、映画芸術、コンピューター・テクノロジ―や経営管理、発展経済学やスカイダイビングのような領域においても神に仕える積極的な可能性に対して、もっと心を開くことが出来ましょう。このことは、必ずしも現代の科学主義やテクノクラシ=、あるいは、資本主義をナイ―ブに、空想主義的に変容することを意味するのではなく、―西欧文明が、端的に言って、悲惨な世俗化の過程に支配されているということは誰もが認めるところですー、むしろ、このことは、私たちの文明をそのような過程に引き渡してしまうことを断固として拒否し、ファウスト的人間の文化建設において神の創造の御手は不在であるという主張を断固として受け入れないことを意味します。もし神が御自身の御手のわざを見捨ててしまわれないのであれば、私たちもそうしてはなりません。(「キリスト教世界観」)

 原爆もまた原発も、神の御手のわざを見捨てたことに通じています。ウォルタースがいう「非惨な世俗化」と深く関わっていると思います。「悲惨な世俗化」によって原爆が造られ、また原発が造られたと言えるのではないでしょうか。加えて、「世俗化」という現象は、キリスト教文化及びキリスト教社会が生み出してきた現象であることにも目を留めておく必要があると思います。

 17世紀の数学者であり哲学者であったルネ・デカルトの思想は、疑えるものはすべて疑おうという視点から出発していました。デカルトは正統派のカトリック信者でありましたが、人間の理性を神よりも重んじたと言われています。そこから導き出され命題が「我思う、ゆえに我あり」でした。

 デカルトによって、ヨーロッパの知識人は神の束縛から解放される道を示されました。それは、やがて啓蒙主義を生み出し、啓蒙主義は科学技術を発展させ,工業化社会をもたしました。そのことは人間が神と同等という意識をもたらしました。そして、人間に物質的進歩こそが人間社会が目指す目標であるとの思いを与えました。それは神の創造のみわざの目的を考慮せず、世俗的世界観、つまり人間中心の世界観を生み出したのです。

 人間は神によって創造され、自然界を自由に支配し、開発する権利、さらにその権利を行使することが義務であるとさえ考えるようになったのです。それは自然界の開発を通してのみ価値があると見做すようになったということでもあります。そして原爆が、またその延長にある原発が造り出した社会とは、神を無視して、人間の欲望を最優先とする世俗社会を生み出したのです。それは、文字通り井上光晴が晩年に主張し続けた、「悪霊に支配された社会」そのものであるといってもよいかもしれません。


結び、キリスト者の立ち位置

 3.11から1年が経とうとしています。昨年の10月23日、福島県の小名浜で戦前の朝鮮で、神社参拝に抵抗して、殉教した朱基徹牧師を記念する証言集会が開かれました。被災地で奮闘されてきたS牧師は、証言集会の冒頭で、福島県に原発を誘致してしまったことに、福島県人として謝罪します、と語られました。そのことを受けて、会場から別の牧師が、こう発言されました。謝罪するのは、福島の人だけではなく、この国の人すべてが謝罪しなければならないのではないか、と。

 私も3.11以来、遅まきながら原発について考え続けてきました。そして原発の根っこの部分に原爆があることに井上光晴によって気付かされました。そして、思わされました。まずなすべきことは、主なる神の前に、原爆を開発し、製造してしまった人間の過ちを認め、悔い改めるということでした。その観点から、今日は原爆を開発したことに焦点を絞って、お話させていただきました。

 だが、原子力文明とこれからどう向き合っていくのか、それが大きな課題です。「原発報道とメディア」の著者、武田徹氏は講演会で、こう語ったとキリスト新聞が報じていました。「科学技術は進んでしまったら、元には戻れない。核エネルギーを獲得してしまった人類は、その前の人類とは変わってしまっている」、と。

 とすれば、この大きなテーマを前にして、キリスト者は主なる神に導きを求めていくほかないと思います。そのためにも、より以上に、主なる神を知らなければならない。そのように考える次第です。

 日本の教会は捕囚状態に置かれている。これは親しくお付き合いさせていただいている牧師が時々口にされることばです。預言者のエゼキエルは捕囚の身とされて、バビロンに引かれて行きました。このエゼキエルが捕囚とされた地で、繰り返して語ったことばがあります。それは「わたしが主であることを知れ!」という神のことばです。エゼキエルはこのことばを、実に何と53回繰り返して語っています。原爆を開発した核物理学者に対して引用したエレミヤのことばも、主を知ることの重要さを示しています。

原爆と原発を考えることは、主なる神を知ることに尽きるように思います。主なる神を知ることで、原爆を開発したことが、神の主権を侵したことがはっきりと見えてきます。

また、同時にキリスト者に課せられた使命、預言者的使命を果たすことの大切さにも目を開かされます。預言者サムエルは、王であるサウルを恐れず語りました。

 主は主の御声に聞き従うことほどに、

 全焼のいけにえや、その他のいけにえを

 喜ばれるだろうか。

 見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、

 耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(Ⅰサムエル15:22)

また、バプテスマのヨハネは、ヘロデ王に敢然と、ヘロデが兄弟ピリポの妻ヘロデヤを娶ったことの不法を直言しています。その結果、首を刎ねられました。預言者的使命を果たすことは、敢えて言えば、いのちをかけても、語るべきことは語らなくてはならない、ということであると思います。私は、そのことを小説家井上光晴の原発小説から教えられたように思います。

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講演、論文

今までの講演や論文を紹介しています。

第八回 2012年の集い

  講演題:  原発への神学的アプローチ
   
 
   講師:   山川 暁 様
             単立鶴川キリスト教会 信徒伝道師 山川 暁

第七回 2011年の集い

  講演題: N.T.ライトの歴史的アプローチ 

    講師:   
小嶋崇(こじま・たかし)先生
            巣鴨聖泉キリスト教会牧師 

第六回 2010年の集い

  講演題: 主婦として、教員として

    講師:   
岩田三枝子(いわた・みえこ)先生
            東京基督教大学神学部専任講師

第五回 2009年の集い

  講演題: キリスト教世界観と国際平和-こ こも神の御国なれば-

    講師:   豊川 慎(とよかわ・しん)先生

           明治学院大学非常勤講師

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